表題作ではなく、この作品で締めたいと思います。



この『猫の草子』には、うなってしまった。

私はこういうタイプの小説が好きなのかもしれない。

円地さん自身、谷崎がお好きだったようで、確かに

構成が谷崎っぽいと感じた。

メインとなる家族の外に語り手がいて、

話が何層にもなっていて、さらに「私」の語りの中に

作家自身が出たり入ったりしているような辺りが。

ま、そんな作品、いくらでもあるんだろうけど、

谷崎好きとしては、「おっ☆」と嬉しくなってしまう。


この作品は、いわゆる「家族の問題」というものを

一見のんびりムードで、でもグリグリと押し付けてくるような

ところがおもしろい。

特に、親子間の愛情を信じて疑わない私や、

食卓こそが家族団欒の場であると信じて疑わない私には、

イイ薬になる作品だ。


家族というものが、一番、睦まじくも辛くも感じられるのは、

食卓が一つであるということだ。

食べるのが別で、経済的にマイナスがなければ、

日常生活は比較的平穏に過ぎて行くのではないか。

(164ページ)


えぇっ!? そうなの!? …そうかもしれない…


ここに描かれる家族は三世代なんだけど、まーバラバラだ。

物理的にバラバラではないんだけど、やっぱり、あったかくない。


「個人主義的な家族観」というものを、私は初めて知った。

なるほどな、とも思ったけど、作中に書いてあるとおり、

日本ではかなり難しい話だ。

「縦の関係」は、なかなか切り離し難い。

それに、主人公のおばあさんには夫がいなかったから、

つながり得るのは息子しかいないんだもん。


年末の読売新聞で、室井佑月さんが

「愛されることばかり望み、愛することを知らない時代」

ということを語っておられて、ほぉ、なるほど、と思いつつ、

それは私自身のことだな、とも思っていたところだった。


その状態でこの作品を読んだから、

「産む性」だからこそ女が得られる幸せと、

「産む性」だからこそ女が直面する不幸とが、よくわかった。

だからこのおばあさんは、猫の世話を始めたんだよね。


でも、それではやっぱりダメなのだな。人間じゃないと。

この辺は『蓼喰う虫』で考えたことと同じだ。ほっ。


誰かが支えになってくれる、誰かが杖になって、

人間が人間であることを確かめさせてくれるならば、

人間の形骸を保っていることも出来ようが、

自分は自分でありながら、別のものになって行くような気がする。

(193ページ)


このおばあさんが最後にどうなるかは読んでいただきたいけど、

これがまた現実にも少なくなさそうなところが、また不快なのだ。


ほんでも。家族団欒は目指さねばなるまいよ。