今日は編集できそうです。ほっ。メロも開くようになったし。

昨日アップする予定だった記事です。


三年越しの課題であった、この作品。
松岡正剛さんの千夜一冊 でも扱われています。ぜひ。


とはいえ、もう売ってないのよ、この本。ありえねーよ。
持っている人がいたら譲って下さい。あ、でも定価以上では買いません。


さて、文楽好きなら読まねばならぬ、この『一の糸』、
単純に、おもしろかった。
文楽の世界で実際に起こった数々の事件を、
うまくフィクションにして読者に伝えてくれる、優れた作品だと思う。
実際の事件について、ほんの少し知識がある私としては、
フィクションとしてではなく、本当のところを知りたいところだけども、
「現実や事実そのものを知る」なんて出来やしないのだし、
これはこれとして素直に楽しめば良いのだ、とも思う。


無責任な言い方をすれば、文庫すら絶版になってしまったということは、
これは文楽に興味がある人だけ読めばいい作品であり、
文楽を知らなければ楽しめない排他的な作品だ、としてしまっても
良いような気がする。
この作品が絶版になったことに対しての怒りでしかないのだけど。


逆に私にとっては、文楽というものの幅の広さと奥の深さを知る
貴重な経験となった。
私は文楽を観始めてまだ3年なのだけど
(本格的には「聴き始めて」と書くべきなのだ)、
今年は「少しわかってきた」と実感したつもりだった。
だけど、それはまだまだ入口に一歩足を入れた程度でしかないことが、
この本を読んでわかってしまった。


文楽に接する時、どうしても人形に神経が行きがちであって、
それは悪いことではないとは思うのだけど、
そこで止まってしまっては、まだまだ文楽をわかっていないのだ。


卒論で書いたとおり、人形浄瑠璃において、人形に命を吹き込むのは
あくまで浄瑠璃語りなのである。つまり、太夫と三味線の二人。
もちろん人形遣いは重要だけど、人形遣いだけでは人形は動かない。
語りがないと、動きはスタートできないのだから。


で、この『一の糸』の主人公は、ある三味線弾きとその妻なので、
いやでも太夫と三味線との関係に迫らざるを得ない。
今まであまり興味が向かなかった浄瑠璃語りの世界に、
これからは私も少しだけ、踏み込むことが出来るようになるかもしれない。


まだ一度通して読んだだけなので、茜(妻)の成長物語として
評価できるかどうか、は、実はよくわからない。
茜の右往左往ぶりから、普段あまり見えなて来ない浄瑠璃語りの世界を
読者は垣間見ることが出来る、というところが
この作品の重要なポイントなのかもしれない。まだよくわからない。
よくわからないというのは、私にとって研究対象にならない作品だ、という
意味だと捉えていたけど、いや、やっぱりそれは違う。むしろ逆だ。


浄瑠璃の世界では、太夫と三味線は夫と妻のようなものだ、とされる。
茜の夫は三味線弾きだから、仕事においては「妻」の立場にある。
三味線弾きと太夫との「公的めおと関係」と、
茜と夫との「私的めおと関係」との関連・影響・差異、などを
突っ込んで考えてみるべきなのかもしれない。


太夫と三味線とは、互いに刺激し合い、鍛え合う関係にある。
どちらが格上(年長・ベテラン)かによって、そのパワーバランスは
微妙に異なるが、本来はどちらが上ということなく、常にイーブンで、
互いに高め合える関係であることが理想なのだと思う。


一方、茜は「芸人の妻」として生きることに一生懸命なのだけど、
どうもそれがうまくいかない。そもそも、彼女にとって、そういう生き方が
ベストだったのかどうかは疑問だ。彼女には「芸人の妻」としての役割しか
与えられていなかったたわけではないのだけど、その役割を果たす時には
常に困難と理不尽さが付きまとっているように思う。


つまり、芸人と妻は、太夫と三味線のように、イーブンではない。
芸人の妻は、夫を支える「黒子」のようなものだ。


しかしながら、それは外から見た時のことであって、内情は違う。
なんだかんだ言っても、夫は妻に支えられているのであり、
妻がいなくては何も出来ない夫、だったりもするのである。


そうなのだけど、でも現実問題として、公の場面では、
妻は黒子に徹しなければならない。ことが多い。
これは、太夫ばかりが優遇される文楽の世界においても、
市民の日常生活においても、同じである。


さっきワイドショーを見ていたら、藤原紀香さんが
「芸人の妻として、一歩下がって、三歩も下がって」というようなことを
言っていたんだけど。


妻って何なのさ。
やっぱりこれが、あたしのテーマだな。よし。来年もやってけそう。