土曜日は「活弁シネマ」 を観に・聴きに行って来ました。

「活弁」って知っていますか?

無声映画に、台詞や場面説明をつける人を

「活動弁士」というそうです。


弁士は同郷の佐々木亜希子さん

映画は昭和8年の『伊豆の踊子』でした。

今回は音楽まで生演奏。

様々な楽器でBGMと効果音が演奏されました。


最初は、映像と語りと音楽とが別々の要素として

体に入ってくるので、少し違和感があったのですが、

だんだんそれが気にならなくなってきて、

最後には映画の世界に入ってしまっていました。


完全に入っているかというと、ちょっと違うのですが。

少しだけ、外から冷静に眺めている自分がいる状態。


佐々木さんの語りはとても魅力的で、

自分の体を使って何かを表現することがとても苦手な私は

本当にスゴイ!と感動したのですが。

観ながら・聴きながら、ちょっと別のことを考えていました。


今回の着目点は、文楽との共通点を探ること、でした。

文楽の芸術性は、人形と浄瑠璃とが合わさって生まれるもの。

つまり「視覚」と「聴覚」との「二元性」が重要なのです。

映画や舞台では、俳優さんが自ら台詞を語りますよね。

文楽では人形と浄瑠璃という別々の要素が存在し、

特に浄瑠璃はそれ独自でも「素浄瑠璃」という芸術として

成立するのですが、文楽では人形+浄瑠璃として観る、聴く。


活弁とは、音のない映像に、弁士が台詞をつけるもの。

文楽の持つ特徴に似ているなぁ、と思ったのです。


文楽の浄瑠璃に比べて、活弁シネマは理解しやすい語りなので

映像と語りと音楽とが自分の中で一体化するのがよくわかります。

聴きながら、それを実感することが出来ました。

映像の中の女性はもちろん、男性の台詞も、弁士が女性ならば

女性の声で語られるわけなのですが、そのうちそんなことは

全く気にならなくなり、映像の中の男優さんが語っている、と

思うようになるのです(実際はそんなこと思わないのだけど、

いつのまにか弁士の語りが俳優の台詞になってしまうのです)。


文楽では予習が不可欠だし、どうしても字幕や床本を見てしまう。

あの独特の文体は、なかなかすんなりと体に入って来てくれません。

まだまだ修行の足りない私は、だから文楽の世界に

どっぷり浸かる、という体験が出来ていないのかも。

どうしても、人形だけ、浄瑠璃だけ、という観方・聴き方になりがち。

そうなると、「人形が語っている」ところまでは行き着かないので、

少し冷めた態度で観客席に座っている…ように思います。


いずれにしろ、自分の目が観ている映像や人形の動きと、

自分の耳が聴いている語りや浄瑠璃とを一体化させるのは、

観客の体の中でおこなわれる作業なのだな、と思ったのです。


谷崎の作品を考える上で、これはかなり重要なポイントだな、と

思ったので、ここにまとめてみました。


今朝の朝刊に、人形遣いの吉田玉男さんが

お亡くなりになったという記事が載っており、

ショックというか何というか… 本当に残念でなりません。

もう一度、観たかったです…