続 ある考古学教室の午後 その2 | 旅するとんぼ玉~まあちゃんの備忘録。

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ところで、装身具の意味なのですが、
縄文時代には、シャーマンのような人が身に着けていたと見られていて、装身具によって権力や権威の有無は量れないのだそうです。

弥生時代に入ると、立派なお墓の人が外来の装身具をつけたり、武具を持っていたりして、
階層社会が出来ていく中で、権力を持つ人のアイテム的存在になっていく。。

それが、古墳時代には、ますますキンキラキンに煌びやかになって、6世紀の終わり頃には極限まで達するのだそうです。
「非常に金ぴかで見せびらかす」という装身のあり方なんですって。
一般農民層に近い人たちまで金の耳飾を持つようになり、つまり、上から下まで広い階層の人が皆、金ぴかなんです。。

古墳時代の装身具

それが、6世紀の終わりから7世紀の段階で、ぱったりと装身具の歴史が消えてしまうのが、
日本の特徴なんです。

この装身具の消失に関して、
わたしは、「冠位十二階の制」の制定の後、身分を色で表すようになったので、装飾品がいらなくなったのと、儒教の伝来の影響で日本人が質素を好むようになったのが原因だと思っていたのですが、

吉田先生は、「上から下まで広い階層の人々が金ぴかで同じ格好になってしまった。装身具・装い方で、上から下まで変わらなくなったのは、上の人から見れば古代国家を造り上げていく上で、適当な状況ではない。だからこの段階で一気に装身具というのを放棄していく。それが実は、江戸時代まで装身のない時代につながっていったのだろう」というご意見でした。

吉田先生のおっしゃるような経緯もあって、冠位十二階の制が制定されたのでしょうね。たぶん。。。

次は、第3回 三吉秀充先生の「紡錘車-暮らしの中の糸づくり・布づくり」について書きます。