良心 | 大池田劇場(小説のブログです)

良心

           良  心
              1
 「華僑をすべて抹殺せよだと?ほんとに司令部はそ

んなことを言っているのか?」
山本少佐は自分の耳を疑った。
「間違いありません、参謀本部の辻中佐が直々に本

隊を訪れてそう告げました。」
命令を口頭で言って回った辻正信中佐。
 「世の中に絶対悪というものが存在するというものを、

初めて知った。」
戦後、この男と面談したジャーナリストがそう感想を語

ったことがある。
 毀誉褒貶がきわめて大きな人物で、現代ではその歴

史的評価は正負真っ向に分かれている。
 シンガポールでの華僑虐殺事件はこの男が原因であ

ると言われていた。
 (フィリピンでも米兵に同じことをしようとしたらしいが、

一部を除き、現地の士官が従わなかったらしい。)
 実はこの男、一般の兵士には結構人気があったようだ。
士官学校時代、川の水深を図るのに自ら裸になって飛

び込んだという。
 前線で負傷した兵も進んで負ぶさって帰営した。
海軍と面談する際、山本五十六長官が戦艦大和で山

海の珍味を並べて自分を接待しようとしたとき、 「国民
が物資統制で苦しんでいるのに、この贅沢は何か!」と

一喝したという。
 こういった、見え透いたような手を使う。
 上官にも、平気で自分の意見を言う人だったらしい。
実は配属されたところではまず経理部へ行き、上官の

料亭での請求書の数等を徹底的に調べたという。
 戦前の役所の経理など、今と違って杜撰なものであっ

ただろう。
 下心がないなら立派な行動だが、彼はそれを別のこと

に使ったようだ。
 弱みを握ってそれをちらつかせていたようである。
越権行為は日常茶飯事だったらしい。
 太平洋戦争前のノモンハン事件(モンゴルでの日本軍

とソ連軍の武力衝突)のとき、関東軍に居た彼は、大本

営の不拡大方針を伝える電報を握りつぶしたという。
 その結果が日本軍の大敗につながった。
 太平洋戦争になるとマレー侵攻作戦に携わった。
 マスコミは彼の類まれない弁説に感激し、絶賛した。
当時辻政信は別名を「戦の神様」と言われるほどだっ

た。
 実際には戦意に乏しく、主力部隊をヨーロッパ戦線に

割かれているイギリスの部隊など、誰が攻略しても成功

したであろうが・・・。
上っ面だけの関係では、この男の邪悪さは見抜くこと

ができなかったのではなかろうか?
 当時のマスコミは情報提供が巧みで、パフォーマンス

が得意な彼をもてはやしたのだろう。
 巧言令色少なし仁とは、この男のためにあったような

言葉である。
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イギリスに勝利し、シンガポールを占領した日本軍は、

そこに住む華僑(外国に居住する中国人)達が今までに

激しい抗日運動を展開していたと見ていた。
日本と中華民国は血みどろの戦いを十年以上も続け

ていた。
 これは紛れもなく日本の侵略戦争であり、同じ中華民

族である華僑の人たちが、愛国心から本国へ協力する
のもやむを得ないものがあったであろう。
 ただ、彼らの協力のためにずっと苦しめられてきた日

本軍にとって、これは千載一遇のチャンスであった。
 今まではイギリス軍が居たために手が出せなかったの

だ。
日本軍は華僑を一か所に集めて尋問し、中華民国の

蒋介石に財政援助をしていないか、日本人、日系人に

ゲリラ活動をしていないか、厳しく問い質した。
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その日、日本軍が占領するビルの一室、そこには劉と

名乗る中華料理店の店主が取り調べを受けていた。
 「違う、私はイギリス軍なんかに協力していない。彼ら

はお客として私の店にきていただけだ。」
イギリスの士官は、劉の中華料理店では気前よくお金

を使ってくれる上客だった。
 彼は腕のいい料理人だったのだ。
 「嘘をつけ、お前の近所の崔が日本軍の動きを逐一報

告していたと言っていたぞ。」
劉は単なる世間話だと言い張った。
 他の国に住む華僑から情報の提供など受けていない

という。
 「崔とは個人的ないさかいがあるから、そんなことを言

っているだけだ。他の者に聞いてちゃんと調べたのか。」
劉は半分泣きそうになりながらそう訴えた。
 「本当だ、信じてくれ。あいつは、前から土地の境界の

ことで私に因縁をつけてきていて、私にこっぴどく懲らし

められたから・・・。私は悪くないんだ!」
彼は激しくそう言い張った。見た目は嘘を言っているよ

うにも見えなかったが。
「あんただって、もし店を持っていて、お得意さんがき

たら世間話位するだろう・・・。ただそれだけのこ

となんだ。」
山本少佐は部下の木下中尉に尋ねた。
「どう思う?」
どうとも判断しがたいような華僑の答弁である。
 「彼は海南省出身(共産党員が多かった)ですし、星

州華僑抗敵動員総会(イギリス主導の抗日組織)にも

名を連ねていたという噂があります。」
中尉は調べてきたメモ帳を見ながらそう答えた。それ

以外の情報はない。
 「じゃあ、黒だな。」
少佐はそう即決した。
 「間違いないと思いますよ。」
 木下中尉も上司の意見に同意した。早くしないと次の

被告が待っている。
 「では次の男に行くか・・・。」
劉の銃殺刑が決定し、裁きを受ける次の男が取調室

に放り込まれた。
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「この駅前に集まっている人だかりは何かね?」
たまたまシンガポール駅前を通りかかった城少佐が、

車を止めて警備している久松中尉に尋ねた。
 「シンガポールの華僑どもですよ。辻中佐殿から処刑

せよという命令を受けております。」
華僑たちは日本兵に取り囲まれ、三八式小銃を突き

付けられている。
 「ロクに調べもせずに処刑せよと・・・?」
城少佐は辻の残虐性をよく知っていた。
 「ええ・・・、抗日ゲリラを掃討するためだとか。」
抗日ゲリラは確かに少なからず居たのであるが、一

般人に紛れ込んでいるために外見からは判断はできな

いのである。
 当然のことながら、華僑のほとんどは一般市民である。
「どうだろう?辻が口頭で言っているのが気になる。そ

んな重要な命令なら書類があるはずだ。処刑はそれを

みてからでも遅くはない。」
城少佐はそう言って首を傾げた。
「どうしましょうか?」
上官にそう言われて久松中尉は困った顔をした。
「山下奉文中将が『あいつは我意強く、小才に長じ、

所謂こすき男で信用できない』と言っていたのを聞い

たことがある。俺は自分の思うところに従うよ。そのこと

で司令部に睨まれるのはかまわない。」
辻中佐は単なる軍の幕僚である。
 指揮系統からも城少佐に命令することはできないは

ずである。
 少佐は集まったシンガポールの華僑を解散させるよ

う指示した。
「本当に良いのですか?」
久松中尉は再度確認した。
 彼は陸軍の中枢にいる辻が恐ろしかったのである。
「いいから、ここに居る無辜(むこ)の住民を即刻退散

させたまえ。」
ひどい目に遭わされると思っていた華僑たちは、喜

んで自分の自宅へと帰って行った。
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 戦争に勝利した連合軍が開いたシンガポールでの戦

犯の裁判。
 終戦まで生き延びた山本少佐が、被告として証言台

に立たされていた。
「ですから・・・、我々が処刑したのは戦争の遂行を妨

げる抗日ゲリラ達でした。」
彼はシンガポールでの華僑虐殺事件に関与した罪を

問われていた。
「戦争中のことで十分な取り調べができなかったこと

は認めます。しかしそれは参謀本部からの命令であっ
って、私は言われたことを執行したにすぎないのです。」
山本少佐は裁判官に公正な裁判をするよう要求した。
 武装ゲリラを掃討することで罪を問えない。
 「おまえは、人には十把一絡げ(じっぱひとからげ)

のような裁きをしておいて、自分の時には公正な裁判
を求めるのか?」
アメリカ人裁判官の質問を、日系人通訳はそう山本

少佐に伝えた。
 「いや、しかし、あれは辻が命令して・・・。私はやりた

くなかったのだが・・・。」
 少佐はしどろもどろになってそう答えた。
辻が独断でそのような偽(にせ)命令を出したのはほ

ぼ間違いないであろう。
 前線では情報が混乱していて、当時は本国の司令部

にも確認できなかった。
 辻は口頭で命令していたので責任を追及できず、彼

自身の罪は問われていない。
 おまけに戦犯の裁判が行われていた時、彼は中国に

潜んでいて、行方をくらましていたのだ。
 辻が逃げ回らず本当のことを証言すれば、助かった

人々はたくさん居たであろう。
(・・・実はこの男、終戦まで生き延びて国会議員にま

でなっている。)
 山本少佐の言い分を聞いたアメリカ人の裁判官は眉

一つ動かさず、氷のように無表情な顔でこう言い放った。
 「もし、そのような命令があったとしても、おまえは自

らの良心に従って判断すべきではなかったのかね?」
           6
 日本人の裁判は粛々と迅速に続けられ、刑が確定し

た者はきわめて速やかに処刑されていった。
 なぜなら現地の裁判官は、日本軍がこの地を占領し

たときのように忙しかったからだ。
 被告になった山本少佐が、日本の土を踏むことは二

度となかった・・・。


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(実は一つの話を完結して他の話へ行くという手法

をとっておらず、いくつかのシリーズを並行して書い

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いかと思います。きまぐれで他のシリーズへ飛びま

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(山池田は登山日記と、自分では今一つと思っている

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