「怪しまれてる訳じゃないが、お前とは家族より長い付き合いになるだろ」
確かに研究者は定時に家に帰れない。
「怪しまれる要素が全く無いとも言えないと思いますが」
先輩の言動は慎重かつ大胆に、軽い。
そし て困っている後輩に際限ないくらい優しい。
「そりゃまあ三十路の男が一途にクリーン過ぎるのも怖かろう」
まあ世間一般にはそうですけどね。
「一途じゃだめですかね」
忘れられない思いだってないことはない。
「・・・悪くはねーが、思いつめんなよ」
先輩は小声でつぶやくとタンブラーの中身を飲み干した。
「まあな」
あっさりと同意する辺りが潔いというか色ボケか。
「で、だ。明日お前ヒマか?」
週末日に訊きますか、それを。
「いろいろとやることありますよ引っ越しの準備とか」
「それは俺もある。昼飯食いに出てこい」
聞いてない。先輩という人種は往々にして後輩の異論を聞かない。
「パートナーさんとの時間を邪魔しようとは思いませんよ」
今までも何度か会って食事や飲みに行ったりしているが
先輩と、そういう関係になってからの彼女には会っていない。
「気ぃ使われると余計怪しいだろ」
「怪しまれてるんですか」
なおさら行きたくない。
「いまさら、でしょう」
努めて明るく言う。口に運ぶラテと同じく少し冷めて聞こえるといい。
「それに、ほとんど今月末で会わなくなる方々ですしね」
退職日は来月末。
ただし引っ越しや引き継ぎや有休消化のため、私はいない。
「ま。そだな」
あっさりと同意する潔さと軽さが心地いい。
「しかし誕生日に入籍とか。ベタですよね」
おかげで近頃ただでさえ先輩の口角は緩みっぱなし。
「相手がベタベタなもんでな」
そう言うアナタは
「ベタ惚れなんでしょ先輩」
気付いたのか、隣で軽く笑いが起こる。
「今日はリピート機能でも付いてんのか?」
軽いGとともに車はロータリーを抜ける。
「たぶん今日は周りのほうがリピート機能搭載するでしょうね」
信号待ちで先輩は、あー。とか気の抜けた返事をこぼした。
「朝礼で投下するんですか?」
それなりに爆弾発言を。
「それがベストだと思ってたんだが・・・・」
タンブラーのラテを口に運ぶと一口嚥下して先輩は続ける。
「お前が面倒なのに捕まるか?」
先輩がいつになく真面目な声音を使う。
基本的にこの人は良い人だ。
片手を軽く上げるとロータリーに滑 り込んできたGTは
私の前でピタリと止まる。
「早いな」
運転席の窓を開けた人は開口一番そう言った。
「先輩こそ。おはようございます」
保温ケースからタンブラーを取り出して先輩に手渡した。
「サンキュ。いつもすまんな」
GTの後部から助手席に回り込む。
「先輩こそ。」
さっきから同じ言葉の繰り返しに少し笑いが漏れる。
「ん?どした?ご機嫌だな」
それは、このところのアナタには負けますよ。
「先輩こそ。」
坂を下りきると、ちょうど電車がホームに入る。
道路を併用して走るけれど路面電車ではない。
地元の人間さえも市街地を走る市電と混合しているが
江ノ電と同じく地元の電気鉄道株式会社だ。
まあ、比較にならないくらいメディアへの露出は少ない。
鉄道路線は2つしかなく、私が利用する路線にいたっては
始点駅・中間駅・終点駅の3駅だけであるが
その中間駅周辺には市立の小中高校、県立高校、私立中高一貫校と
教育施設が軒を連ねており、利用客のほとんどを占める学生にとっては
大切な交通機関なのだろう。
そんなことを考えている間に電車は終点駅に着く。
わずか1.2KM。徒歩や自転車で通えない距離ではないが
これには少し、訳と意味がある。
改札を抜けると、そんな言い訳を助長する一端
赤いアルファGTが滑り込んでくるのが見えた。
まあ、ひとりではないけれど。
と思いつつ、ラテもどきを小さめのタンブラー2つに移す。
そして保温ケースの中に入れ固定した。
片付けは手早く。カフェオレボウルは水に浸して。
玄関先の姿見で確認する。
今日もまた私は私だ。
保温ケースとバッグを手に部屋に施錠し階段を下りる。
そのまま坂道も下ると心はどうあろうとも
足取りは弾むように駈けていく。
亜麻色の髪の乙女は幸せじゃなくても坂を下ると風は優しく包むのだ。
とりとめのないことを考えコーヒーを体内に注ぐ。
熱い液体が身を巡り、思わず吐息が漏れる。
戦闘のためのエナジーが充填される気分だ。
ロートからフィルターを外し、付着したコーヒー糟を除く。
コーヒー糟はキッチン脇に置いた鉢植えへ。そしてコンロには鍋。
ブローした髪を束ね、服に袖を通し、薄く化粧する。
幾度となく繰り返した行為。そうキャットウォークのように。
沸騰した鍋でネルフィルターを煮沸。
カフェオレボウルにミルクを注ぎ、茶筅で手早くかき混ぜる。
倍増したら電子レンジに30秒。
その隙にタッパーに氷と蒸留水を入れ、さらにネルフィルターを投入。
そのまま冷蔵庫で明朝までおやすみなさい。
レンジから取り出したカフェオレボウルにフラスコに残ったコーヒーを入れ
ラテもどきが出来上がる。
ひとりの朝食としては十分贅沢だと思う。