被爆者だった祖母のこと | 幸せクローバーの見つけ方

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野草と土いじりとおむすびと小豆を愛する野山育ちのお母さんです(・ิω・ิ) 日々の中の幸せと氣づきを絵と言葉で綴っています☘




こんにちは、都希(つき)です。






8月9日は長崎の原爆の日でした。




今日は被爆者だった祖母の話を書いてみようと思います。






一緒に暮らしていた祖母は
若い頃田舎が嫌だからと働きに出ていた広島市内で
原爆にあいました。




3階建ての建物内で仕事をしていて
突然ものすごい大きな音に
とっさに机の下に逃げ込んで助かりました。




幸い大きなケガなどもなかったようです。




子どもの頃
雷が鳴って私と弟たちが怖がると




よく
『雷なんか全然怖いこたぁない。
原爆はこれよりもっと大きな音じゃったけぇ』




と言って
安心させようとしてくれました。





倒壊した街の中を逃げていくとき
祖母に『お水をちょうだい』と助けを求めてきた人たちがいて




その人たちに何もしてあげられなかったという話は何度か聞いた気がします。




地獄絵図のような状況で
祖母が何を感じ、どんな思いだったのか
計り知れないものがありますが




祖母は話すことで
助けられなかった人たちへの
弔いや申し訳なかったという気持ちを伝えようとしていたところがあったのかもしれません。




そして、当時軍に勤めていた祖母と
“閣下”と呼ばれていた人との話を一度だけ聞きました。




祖母は愛称で呼んでもらっていたほど
その人からかわいがってもらっていたらしく




終戦後、『責任を取らなくてはいけない』と去っていかれる前に




『○ちゃん、最後にヒゲを剃ってくれんか』と言われて
祖母が剃ってあげたのだそうです。




私はその話を聞いたとき
祖母と閣下と呼ばれていた人との最後のやりとりに
温かい心の交流を感じて感動しましたが




今思えば、祖母がそこでどんな仕事をしていたのか
ヒゲを剃ってあげたというときの状況などもほとんどわからず
もっとよく聞いておけばよかったと思います。





あの日
祖母がどうやって崩れた建物の中から出たのか
どこを目指して逃げたのか




子どもだったから
そこまで聞こうと思わなかったのもあるし




祖母は『あまり話しとぅない』と
そのときの話をするのを嫌がるところがありましたので




亡くなる前に詳しい話はほとんど聞けませんでしたが(聞いたのに忘れている部分もある気がします)




とても貴重な話を聞かせてもらったんだと思います。






祖母は原爆以外にも幼少期から波乱の人生を歩んできていることもあってか




たまに卑屈っぽくなり
自分で自分をひどく追い詰めるところがありました。




でも、もともと社交的で
誰とでもすぐ仲良くなるので
友達は多かったですし




愛情をかけて
無農薬の立派でおいしい野菜を作っていて
畑までいつも生き生きとしてるように見えました。




よく喧嘩をしましたが
私をいつも心配してくれているからこそ
口うるさくなっていたんだと今では思います。






人は過去にどんなに苦しくつらい経験をしていても




誰かのためにできることがあったり




日々の中に幸せや感謝を見つけたり




自分の命を精一杯輝かせることはできると思います。




いま心に深い傷を抱えている方も




どうか消えない痛みに絶望しないでください




必要以上に自分を責めたり
追い詰めないでください




あなたは自分で思ってる以上に
まわりの人から必要とされているのです




痛みとともに人生を生き抜いた
祖母の姿からもそう思います。







本来、人も明るいほうに向かって生きていくものなんだ





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