前橋市総社城址 | 赤城南麓陶遊ロードB

赤城南麓陶遊ロードB

陶芸
誰もやったことのない模様積技法を考案し作品作りに励んでいます。

 総社城の築城は慶長6年(1601)、初代総社藩主となった総社城秋元長朝が築い

たのが始まりとされます。秋元長朝は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に与

し、会津若松城(福島県会津若松市)に在城していた上杉景勝に対し降伏の説得に尽力

した功で総社領1万石が認められ諸侯に列し総社藩を立藩しました。当初は蒼海城に入

りましたが、蒼海城はかなり傷んでいたとされ、旧勝山城跡地を利用し新たに新城築城

と城下町建設を計画しました。総社城は利根川を外堀とした平城で南北780m、東西

750mの規模に本丸、二ノ丸、三ノ丸がありましたが寛永10年(1633)に2代

藩主秋元泰朝は甲斐国谷村へ1万8千石で移封となり総社藩は廃藩、総社城も廃城とな

ります。

城川公園東端に立つ説明板

主要地方道前橋伊香保線を伊香保方面に向かい、利根川に架かる大渡橋を渡った西詰め

信号交差点の南約70mのところに南木戸跡があるところから西に約823mのところに作

られた天狗岩用水まで、同所から北へ約839mのところに西木戸跡があります、そこか

ら更に北へ約480mの五千石用水取水口まで位までと、同所から北東方向約300mの

利根川岸までの広大な台形地が支配地で、天狗岩用水から取水し同用水の東約400mを

南に流れ下る五千石用水の東に城域があったとされます。

利根川の洪水や浸食によって多くの遺構が失われ、廃城から再興されることなかったこ

とから農地化されたのち現世には宅地化で残るものは物見櫓があったとされる遠見山古

墳にその西方約129m地点に大手門跡の説明板、大渡橋西詰め交差点の南約70m地点に

南木戸跡、天狗岩用水に架かる立石橋の東詰に西木戸跡、遠見山古墳の北西約255m地

点に二の丸土塁・堀跡などの説明板が設置されていますが、最もらしい遺構は見当たり

ません。

城川公園

説明板下の地図 左が北になります。

遠見山古墳が中央部少し上にあって、その東方に二の丸の西から南に曲がる土塁が認め

られ二の丸東に本丸があったとされる場所は浸食され利根川の中です。


標示柱