ハイリスク妊婦二人目 | 3度目の人生 強く生きる

3度目の人生 強く生きる

2度のクモ膜下出血から復活して4年
当時の闘病記録とか色々書いてみようと思います
あと、猫日記も

前回から続きます。


入院中、「白い巨塔」みたいにゾロゾロと医師が回ってくる時に初めて部長先生を拝見したのですが、すごい個性でしたね。


俳優か⁉️って思いました。


白髪混じりの長めの髪にチョビ髭、太く緩めに結んだ派手なネクタイ、軽ーい話し方。


(高いお店で遊び慣れてそう)


勝手な印象を抱きました。


その時に部長先生から、


「あなたは体質的に産道が固くて難産タイプだから、次も予定してるならあんまり年数を開けないことと30歳くらいまでにしてね」


そう言われてたので、産後1年経った頃に二人目を考えました。
元々無排卵が長く続いていたし、なかなか妊娠しないので婦人科に通ったりもしました。


排卵誘発剤も飲み薬でのホルモン治療も効果はなく、それ以上の治療をするには使えない薬が出てくる。

二人目は半ば諦めていたのですが、ここを逃せば5学年空いてしまうというタイミングで、最後のチャンスだと再び排卵誘発剤を処方してもらいました。
私的に1年でも長く一緒に小学校に通ってほしかったんです。


(年の差兄弟を否定しているわけでは決してありません)


期待してませんでしたが、この時は不思議と排卵が起こり妊娠することができました。


予定日は3月30日。
二人目も計画的な無痛分娩で予定日より早くなるし娘と4学年差になることは間違いなさそうです。


4年ぶりの妊娠でしたが、やはり変化がありました。


一人目の時より明らかに血圧が高い。


これは妊娠中だからというより既に高血圧の兆しが出てきていたようで、産後もずっと血圧は高かったです。



いよいよ出産の時期を迎え入院しました。
最初の内診時に準備して待っていると
カーテンが開き、初めて見る男性医師から、「僕が出産を担当する○○です」と挨拶されました。


例えるならミスチルの桜井さんぽい、私の地元の言葉で言うとシュッとした顔(まぁまぁ整った顔というニュアンス?)の先生でした。


当時私が27歳でその医師は30過ぎくらいかな?
特に男性医師に抵抗はない私ですが、同世代の男性医師と内診台で顔を合わせたのはさすがに気まずかったことを覚えています。



出産予定日を決める時に、私としては当年度中に産みたいと伝えると、自然に任せれば4月は余裕で過ぎそうということで予定日の二日前からラミナリアを使うことになりました。


余談ですが、この時の選択を私は長く後悔することになります。
年度末ギリギリの早生まれになってしまったことで、息子にとって大変な学生生活だったと思う。
(追記:本人は学校は楽しいし友達もたくさんいて、今の学年で過ごせて良かったと言ってくれてますが、小学2年から野球をやっていたので体格差、体力差、理解力の差は大きかったと思います)
中学3年くらいから差はなくなってきたけど、
今は誕生日が遅いため高校の卒業式後に合宿免許に行けないと残念がってます。



話は戻ってラミナリア。


もうめちゃくちゃ痛くて騒いで10本くらいでギブアップ。前は20本以上入ったのに。


ラミナリア入れたのが夕方過ぎくらいかな?
その後夜にかけて出血がありお腹が痛くなってくる。


同室の人は私より1日予定日が早かったのに私が先に処置室に入ることになりました。


前回は促進剤と麻酔同時にスタートだったけど、今回は子宮口がある程度開くまでは何もなし。
何も聞いてなかったのでいきなりの陣痛に驚き。
痛いと言うより圧迫感がものすごく苦しく感じて、なるほどこれは血管がヤバいかもと感じました。


深夜になって麻酔と促進剤スタート。
腰椎穿刺を2回やった私は腰椎麻酔は全然余裕。
この辺りで看護士さんが夫に連絡したようで、連絡しましたと報告を受けます。


朝になっていよいよ分娩室へ。
ここから何だかバタバタし始めます。


子宮口が開ききってない中、赤ちゃんがどんどん降りてきてしまったようです。
なんか無理くり引っ張り出されたような感覚があり、


午前9時29分、息子誕生


娘の時みたいな元気な産声でなく心配しましたが、これは個性の範囲で健康に生まれてくれました。
息子の時は産湯につけずフキフキしてます。


この時も出産後すぐに吐き気が襲ってきましたが、カンガルーケアで息子を胸に乗せられると治ってきました。


出血がとても多かったため、この後しばらく分娩台で過ごすことになります。
具体的な数字は聞かされてないし母子手帳にも記載はありませんでしたが、かなりの出血を起こしているのでしばらくそのまま様子をみるということでした。
娘の時で750ml出血がありましたが、娘の時と違って産後すぐ鉄剤を処方されたり全ての処置が慎重に感じましたね。


(夫はこの頃にやっと到着。
何しに来たんだって感じです。)



こんな感じでクモ膜下出血後の2回の出産記録でした。



1回目のクモ膜下出血で助かり、その後生まれた子供達。
2回目のクモ膜下出血を起こしてもまた助かり、次の誕生日で息子も成人を迎え社会人になる予定です。


娘と息子を通して出会えた大切な人がいます。


大きな病歴ですが、今は全てに感謝しています。