神様、神様どうかボクを愛して下さい。
包み隠さず、合理的に考えず、臆病にならず、考えても愛されないと分かっているので、その気持ちを見つけ出そうとしないということをしなければ、
誰でもみんなこんな気持ちを持っているのではなかろうか。
いや、別に神様を信じてる、信じてないとかじゃなくてね。
強力な力に頼りたい気持ちって人間にはあるのではなかろうか(´Д`)
包み隠さず、合理的に考えず、臆病にならず、考えても愛されないと分かっているので、その気持ちを見つけ出そうとしないということをしなければ、
誰でもみんなこんな気持ちを持っているのではなかろうか。
いや、別に神様を信じてる、信じてないとかじゃなくてね。
強力な力に頼りたい気持ちって人間にはあるのではなかろうか(´Д`)
しかし逸脱は逸脱であって、逸脱とは普通付近から離れることでありますから、逸脱すれば、するほど、普通付近からどんどん離れていき、排除される可能性が増えるわけです。
そこに個性を出す恐ろしさがあるのです。
現代人を見渡たせば、よく教育された個性なき普通の人間ばかりです。
だから安定した社会を営んでいけていると言えば、そうなんですが、個性を失ってしまった人間は機械とどのような違いがありましょうか。
個性なき人間は、酷い言い方をしますと、気分を害される方がいらっしゃるかもしれませんが、使い捨て人間と言えるのではないでしょうか。
使い捨て人間は使い捨てカメラと如何なる相違点がありましょうか。
個性を失ってしまった人間が手に入れることができる幸せはといいますと、社会が規定し提供する幸せなのであります。
社会とは花でございます。そして蜜を作り出します。その蜜を味わえるのは、普通人になることなのでございます。
普通であれ、基準を守れ、他の人と逸脱するな、社会が規定したルールに乗っ取れば、蜜を吸うことができるのでございます。
またここにも普通を逸脱する事への恐ろしさもあるのです。社会が生み出す蜜を味わえなくなるという。
では、いったい個性人が手に入れることができる幸せとはなんなのでしょうか。
それは本人が花となり、蜜を作り出し、そこに人がよってきて、その蜜を味わい、酔しれ、酔しれる蜜を作ったからこそ、自分の花粉を広げることができるところにあるといえますでしょうか。
私がここで言いたいのは逸脱し過ぎて、普通を見失った個性人であれ、ということではありません。
普通とは謂わば母体なのです。またある一つの灯台なのでございます。道に迷ったときに戻って来れる場所、そして安心できる場所なのでございます。また自分の位置している場所が分かるといいますでしょうか、普通があるから、自分の旅をすることが出来るのです。
なので普通を見失えとは言いません。
しかしただずっと普通人のままで生きますと、せっかくの自分の花を枯らしてしまうことになってしまうのではないでしょうか。
自分の花を枯らしてしまう。それは自分が自分で無くなってしまうこと、自分が乗っ取られてしまうこと、果ては使い捨て人間へと変貌をとげてしまう。
私はこの社会で自殺者が3万人を越えているという状況がとても信じられないのでございます。
それは謂わば自分の花を枯らしてしまったと言えるのではないでしょうか。自分の花を枯らし、社会が出す蜜も吸え無くなって、万事休す。
自分の花を咲かすことが出来たならば、そのような事を避けることが出来たのではなかろうかと考えてしまうのです。
と、まぁこのように書き連ねましたが、私自身はといいますと個性なき普通人であるのです。社会の価値観を大事にし、逸脱することを恐れている普通人であるのです。謂わば上記の内容は私が個性を持ったとしたらの話であり、私の力強くありたいという願望を含んだ内容なのであります。
そこに個性を出す恐ろしさがあるのです。
現代人を見渡たせば、よく教育された個性なき普通の人間ばかりです。
だから安定した社会を営んでいけていると言えば、そうなんですが、個性を失ってしまった人間は機械とどのような違いがありましょうか。
個性なき人間は、酷い言い方をしますと、気分を害される方がいらっしゃるかもしれませんが、使い捨て人間と言えるのではないでしょうか。
使い捨て人間は使い捨てカメラと如何なる相違点がありましょうか。
個性を失ってしまった人間が手に入れることができる幸せはといいますと、社会が規定し提供する幸せなのであります。
社会とは花でございます。そして蜜を作り出します。その蜜を味わえるのは、普通人になることなのでございます。
普通であれ、基準を守れ、他の人と逸脱するな、社会が規定したルールに乗っ取れば、蜜を吸うことができるのでございます。
またここにも普通を逸脱する事への恐ろしさもあるのです。社会が生み出す蜜を味わえなくなるという。
では、いったい個性人が手に入れることができる幸せとはなんなのでしょうか。
それは本人が花となり、蜜を作り出し、そこに人がよってきて、その蜜を味わい、酔しれ、酔しれる蜜を作ったからこそ、自分の花粉を広げることができるところにあるといえますでしょうか。
私がここで言いたいのは逸脱し過ぎて、普通を見失った個性人であれ、ということではありません。
普通とは謂わば母体なのです。またある一つの灯台なのでございます。道に迷ったときに戻って来れる場所、そして安心できる場所なのでございます。また自分の位置している場所が分かるといいますでしょうか、普通があるから、自分の旅をすることが出来るのです。
なので普通を見失えとは言いません。
しかしただずっと普通人のままで生きますと、せっかくの自分の花を枯らしてしまうことになってしまうのではないでしょうか。
自分の花を枯らしてしまう。それは自分が自分で無くなってしまうこと、自分が乗っ取られてしまうこと、果ては使い捨て人間へと変貌をとげてしまう。
私はこの社会で自殺者が3万人を越えているという状況がとても信じられないのでございます。
それは謂わば自分の花を枯らしてしまったと言えるのではないでしょうか。自分の花を枯らし、社会が出す蜜も吸え無くなって、万事休す。
自分の花を咲かすことが出来たならば、そのような事を避けることが出来たのではなかろうかと考えてしまうのです。
と、まぁこのように書き連ねましたが、私自身はといいますと個性なき普通人であるのです。社会の価値観を大事にし、逸脱することを恐れている普通人であるのです。謂わば上記の内容は私が個性を持ったとしたらの話であり、私の力強くありたいという願望を含んだ内容なのであります。
生物の発生。
動物には好き嫌いがあるか。
動物に好き嫌いという感情はないと仮定しても、避けるものと好むものは持っている。
動物界においては
好むもの=生命の維持に必要なもの、又は生命を危険にさらす可能性のないもの。
避ける物=生命を危険にさらす可能性のあるもの、又は生命の維持に必要なものだとは断定出来ないもの。
生命が生命自身を認識できるようにした存在が人間であると言われているので、動物界における好むものと避けるものは、人間においてはそれが認識、意識できるようになり、好き嫌いという感情になったと言える。
好きとは生命の維持を保つもの、嫌いとは生命を危険に曝すものと人間の無意識中にインプットされているかもしれない。
動物は好むもの、避けるものをほぼ厳密に守ることにより、その種はその種であり続ける。
然るならば人間も同様、好き嫌い通りに生きるならば、その個人は個性的に謂わば大衆に同化しない人間になる。好き嫌いとは個人によって違うからである。
しかし、人間は動物の次元を一次元上にいる。それは自分を意識できるようになったと言い換えることができるかもしれないし、刺激から距離を置き、心の中でその刺激を考察でき、ゆえに選択の幅が広がり、行動の幅も広げることが出来るようになったと言えるかもしれない。
単純に好き嫌いに頼っていては動物と似たりよったりで、行動が単一化してしまう。それは個性化につながり、大衆への同化は避けることが出来るかもしれないが、しかし環境変化に対応できなくなる可能性が生まれる。
しかし好き嫌いに頼らなければ大衆と同化してしまい、自分を失う危険性がある。
しかし現代社会では社会が人間の好き嫌いをコントロールし、いくら好き嫌い通りに生きても、みんなが同じ物を好きになり、みんなが同じ物を嫌いになり、大衆と同化し自分を失うということもある。
動物には好き嫌いがあるか。
動物に好き嫌いという感情はないと仮定しても、避けるものと好むものは持っている。
動物界においては
好むもの=生命の維持に必要なもの、又は生命を危険にさらす可能性のないもの。
避ける物=生命を危険にさらす可能性のあるもの、又は生命の維持に必要なものだとは断定出来ないもの。
生命が生命自身を認識できるようにした存在が人間であると言われているので、動物界における好むものと避けるものは、人間においてはそれが認識、意識できるようになり、好き嫌いという感情になったと言える。
好きとは生命の維持を保つもの、嫌いとは生命を危険に曝すものと人間の無意識中にインプットされているかもしれない。
動物は好むもの、避けるものをほぼ厳密に守ることにより、その種はその種であり続ける。
然るならば人間も同様、好き嫌い通りに生きるならば、その個人は個性的に謂わば大衆に同化しない人間になる。好き嫌いとは個人によって違うからである。
しかし、人間は動物の次元を一次元上にいる。それは自分を意識できるようになったと言い換えることができるかもしれないし、刺激から距離を置き、心の中でその刺激を考察でき、ゆえに選択の幅が広がり、行動の幅も広げることが出来るようになったと言えるかもしれない。
単純に好き嫌いに頼っていては動物と似たりよったりで、行動が単一化してしまう。それは個性化につながり、大衆への同化は避けることが出来るかもしれないが、しかし環境変化に対応できなくなる可能性が生まれる。
しかし好き嫌いに頼らなければ大衆と同化してしまい、自分を失う危険性がある。
しかし現代社会では社会が人間の好き嫌いをコントロールし、いくら好き嫌い通りに生きても、みんなが同じ物を好きになり、みんなが同じ物を嫌いになり、大衆と同化し自分を失うということもある。