音楽を聴く。テンションが上がる。踊り出したくなる。口ずさみたくなる。うっひょーとなる、イケイケになる。
または昔を思い出してしんみりする。しんみりしたメロディーでしんみりする…
音楽はそれでいい。
誰が歌っているとか関係ない。
もう一回聴きたいと思いたくなる曲がある。そしてそれを聴く。それが極上ではないか。
例えばすばらしい評価を受けているA様という人がいて、A様はB、C、D、Eというものを好んでいたとして、ではBというもの、Cというもの、Dというものを自分も好んでいたら素晴らしい評価を受けるんじゃないかと考えてしまうのって不思議よね。

やっぱり自分が素晴らしいと思うから好むのか、素晴らしいと言われているから好むのか、前者が大事だと思い、その為にも感覚というものが大切なんではないのかと思うのだよ。
AさんとBさんという関係ではなくて

医療者と患者という関係。

AさんとBさんという関係であれば生まれなかったであろう問題が医療者と患者という関係になった時に生じる問題がある。
自信…自分を信じる。自分の存在を肯定できる力。
私が私でいられる程に自信は強くなるか。
私が私であっていいと思うことができる。
それが出来なければ??
私の一連の行動はどのような結果をもたらしていったのか。

どのような影響から私はそのような行動が生まれたのか。


と、いうことをたまに考えてみるお。
もし私が今電車の中で大声で歌えば精神に病を持った人物と認定されるであろう。

しかし私が子供であれば何かまだ許される気がする。精神を病んだというより、モラルをまだ守れないだけだろうと認識されるに違いない。


この違いを考えていきたいんだぬ。
その前にまず一眠りzzz
分かる。
あそこでああ言っとけば、すんなり問題なくいけたよ。

けど、そうしたら俺がここにいる意味がないんだよ。普通はああ言っといて、片付ける。そうしたらそれは俺ではない誰でもいいんだ。


俺はああ感じた。
人間対人間のコミュニケーションって本来は予測が付かないものなんだよ。
そしてまた自由であるべきなんだ。
けど型に当てはめようと必死。
型に当てはまんなかったら、お笑い草。


人は愛されたことがないと、愛しない。

と、言うのも
人を愛することができるのは、愛というものを知っているからだ。
愛というものを知るためには、愛されたことがなければならない。
人は愛されたことがないと、愛しない。愛したくてもイメージが無いために愛することが出来ないのだ。



また自分がどのように愛されたかということが愛のイメージを作る。

そしてそのイメージで持って人はそのイメージを具現化する。

キリストの愛は万人に対する愛。

つまりイエスに愛された人々の愛は万人に対する愛のイメージであり、~でなければ、~しなければという日本的な愛ではないのだ。

日本の愛はなんと偏狭で矮小でつまらぬものか。


しかしそれゆえに発展したとも言えるのだが、日本的な愛よりもキリストの愛を欲する。


…と実のところ日本的な愛もキリスト的な愛もなんも分かってないんだぬ。テキトーに書きまんた。
他人に大切に扱われなければ、他人を大切に扱わないのか。

イエス・キリスト様は人から愛される前に人を愛したのだぞ。
愛される為に愛したのではないぞ。
愛されないと愛しない人々の為にまず先に人々を愛し、愛された人々は人を愛す機会を得たのだぞ。
なんて強いお方なんだ。


と、勝手にキリスト像を考えてみた。
こうでなければならないものってきっと数少ない。