go to 佐賀④~名護屋城 | 100回行こう、ヨーロッパ 

100回行こう、ヨーロッパ 

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  100 回行こう! と勢いはよくても、実際の訪欧はまだ約40回。欧州その他への
  これまでの 100 回超の海外旅行で 体験したことや、思ったこと ・ 感じたことを
  つれづれに記してみる。  【タイトル背景はプラハ】

'20/11/24

朝7時に目を覚ますも、昨夜から全然体を動かせておらず、これではせっかくの朝食も美味しくいただけないのでは? と散歩に出ることにした。昨日の「虹の松原」が東の浜であるのに対し、今朝は反対側にある西の浜を歩いてみた。夏場は海水浴場のようで 海の家が並んでいる。トイレやシャワー設備を頻繁に目にするよく整備された海岸であった。

行き止まりまで歩いて、帰りは住宅街の道を通った。そこはずっと石垣が続き、往時の唐津城の名残りを残す雰囲気のいい通りであった。

 

お腹を空かせての朝食は昨夜と同じ部屋で頂いた。美味しいのでもりもり食べた。

チェックアウトして半島にある呼子を目指す。ここは漁村で朝市が有名らしい。魚介や野菜の市が並ぶが 連休明けだけに客は少なく、その僅かな客を狙った客引きが激しい。ゆっくりと見物できず イカのフライを食べただけで見物を終えた。

 

次は名護屋城へ。今日は博物館が定休日で閉まっていることは知っていたが、城址もあるし 行ったら何とかなるのでは,と向かった。博物館が休みだけに 城址はひっそりして人影がほとんどない。嫁さんが城址を見学するにあたって説明が欲しいと言うので ガイドを頼んだ。

ガイドの女性は丁寧に説明してくれ 城の概要がよくわかった。豊臣秀吉が主導して建てた名護屋城だが、朝鮮征伐の前線基地として わずか5ヶ月で築城し、全国から招集された47藩の大名で人口20万人の城下町が出現したというから驚きである。

 

そして一番のびっくりは 築城も撤退もあまりに早かったので 資料が残されておらず、昭和43年に発掘されるまで ずっと放ったらかしにされていたという話。大阪城並みに広くて大きいのに 誰も知らなかった(噂にはなっていた) というのはホンマかな, と信じ難い。ここは東洋のマチュピチュか?

景色がよく、歴史的にもこんなすごい遺跡がなぜメジャーになれないかというと、韓国の反日感情を恐れ 大々的に売り出せないとの言い分は何となく理解できる。たった 1時間半だけの滞在で 博物館にも寄れなかったが、もっと居たい気がした。

 

 

 城へ入る正面玄関口                   本丸越しに見る玄界灘の眺望

 

 城内はキレイに整備されている(ガイド女史と)       全国から参集した大名の陣跡