私のような地位も名誉もお金も(若さもハハハ)無いものが、東北の人に何かしてあげれないかと、無謀にも岐阜発岩手ボランティア定期便なんて大それたことを言い出しました。でも たくさんのみなさんの「ありがとう」や「一緒に行くよ」や「協力するよ」や純粋な暖かい気持ちが集まってきて実現に向かっています。毎日みなさんの思いに嬉しくて涙 涙しています。(>_<) たくさんたくさんのみなさんの協力の申し出ありがとうございます。みなさんの暖かい思いを無にすることのないように出来るだけのことをしたいと思います。ここまで来れたのもみなさんの思いがあったからです。ありがとうございます。

私の岩手でのボランティアの報告を見て、ある方は

「丹原さんのブログを拝見しました。
現地の写真や報告文を見ると、被災地の大変さが実感として伝わってきて、涙が出てきます。
私は難病もちで、とても現地には行けませんが、若くて体力があれば、ボランティアでやはり何か動いていたと思います。
今は、自宅で安静にしながら、被災者の方々の幸せを毎日何時間も祈る事しか出来ません。
なので、丹原さんを支援するのも、きっとご縁があったのだと思います。
元気だったら、きっと丹原さんの話に乗って、「それいいね~。私も行く~。一緒に連れて行って~」と、話が広がって行っていたと思います。
ご自分の時間とお金を使って行くだけで大変だと思いますので、こうしてご自分から行動できる方は、本当にステキです。支援が継続出来るのを、微力ですが陰ながら今後も応援しています。」とおっしゃって下さいました。(>_<)そうだったんだ 自分では行けない方がこんな熱い思いで私にメッセージを送ってくださっているんだと涙 涙でした。

また岐阜は洪水がたびたびあり 大きな被害に会われた方がたくさん見えます。その方達は自分のことのように思い、今回の震災をいたたまれない気持ちで見ていらっしゃるようです。何かしてあげたいという切なる思いに涙が出ます。

「丹原さんの標記報告内容を読みました。読みながら脳裏に浮かんだのは、34年前のことでした。
そのころ私は、安八郡墨俣町に住んでいて安八水害に直面しました。
年齢は私29歳、妻と3歳の長女、お腹には長男を身ごもっていました。
その時の水害の時の情景が浮かびました。
水が半分程度引いたので、ボートで家まで行き玄関を入るなり目の前に現れた光景は、丹原さんの書かれたほどではありませんがごみ屋敷そのものでした。
水が引いてからの片付けも3ヶ月はかかりました。家の前には、大きなごみの山が出来ていました。
近所周りの家々の前にもごみの山が築かれていました。
その時は、先のことなど考えるこことなく、その日その日が片付けの繰り返しで、淡々と時が過過ぎていった記憶があります。東北の人々は、私の経験の何十倍もの被害を受けられ、今は何も考えることなく、その日その日を淡々と過ぎて行くのではと察します。
気持ちの整理が付くまで1年はかかるのではないかと考えます。
本当の苦労、苦しみはそこから始まるのではと思います。支援もそこからが本当に重要になると考えます。
来年は私も現役を引退しようと考えています。丹原さんやれることは何でもします。申し出てください。」

こんな私の元に何でも協力してくれるとおっしゃってもらえて…(>_<)

また 現地に住んで見える方や現地にゆかりのある方々からもありがとうのメッセージをいただき、「そんな 私大した事してないのにこんな暖かいメッセージをいただいてこちらこそありがとう。。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。でした。

「私は大槌町に住んでいます。私の家は近くまで津波は押し寄せましたが被害はまぬかれました…みーたんさんも見た通り、大槌町は壊滅的です。町を見るとため息ばかりでますが友人がたくさん見つかっていません。私ひとりでは見つけることが出来ないのは分かってますが早く早く見つけてあげたいのです…ありがとう!」 本当に涙 涙です。

「はじめまして。私は大槌町出身のものです。ボランティアに行ってくださったのですね。本当に、本当にありがとうございます。心から感謝しております。私の実家は大槌川を越えた安渡(あんど)と言うところです。壊滅してしまいました・・・・。高校時代友人の家が桜木町にあったのでよく行きました。まさかあんな所まで津波が襲うとは思いませんでした・・・・・。大槌出身で、大槌を思いながらも帰りたくても帰れない人もたくさんいます。そんな中、大槌を助けに行ってくれて本当にありがとうございました☆」

その他ここにご紹介できなかったたくさんの方の思いをいただきこうしてがんばって来れています。ありがとう!みんなの思いの輪が広がっていってとってもすごいことになっています。ありがとう。