おはようございます。りょうきです。

 

神縁・仏縁の話。はじめます。

 

仏縁からいきましょうか。

 

これは簡単に言うと、あなたのご先祖さまから続く、仏式の系統のことです。

 

例えばりょうき家は、ご先祖のお墓は真言宗御室(おむろ)派のお寺にあります。

親族の誰かが星に帰る時は、真言宗御室派のお坊さんが来てくれます。

 

これは私が選んだわけではありません。

りょうき家をずーっと遡って、その先祖の誰かが真言宗御室派に入ったというか。

つまりその人をスタートに、平成の今までりょうき家は真言宗御室派です。

 

これを調べるのは簡単です。「うちは何宗?」と親族の誰かに聞けばいいです。

ご両親がわからないなら、お爺様お祖母様とか。誰かが必ず知っています。

 

お寺に入っていなくても、例えば公営墓地におられても、いずれかの宗派には属します。

「無宗教のお墓」は、基本的に存在しません。お墓がある時点で、何かの宗教です。

純粋な神式の家庭も稀にありますが、だいたいは仏教の何らかの宗派に属します。

 

仮に現在の信仰がカトリック等でも、家系のどこかでおよそ仏教に行き着くものです。

父方と母方で違う場合も多いですが、お好きな方を聞いてみましょう。

 

この仏式の系統、つまり何宗かに縁があることには、歴史的な背景があります。

 

江戸時代だったか、日本ではお寺が国民の存在を管理していたんですね。

つまり戸籍とかを管理していました。市役所みたいな働きです。

 

この時点で、日本国民は一応全員がどこかのお寺に管理されることになります。

りょうき家は、それがたまたま真言宗御室派のお寺だったんでしょう。

 

もちろん、途中で戦争とか色々あったので、どさくさに紛れて宗派が変わったとか。

あるいは個人の思うところで、誰かが宗派を変えたとかもあります。

 

それでも構いません。とりあえず今を生きるあなたのお家が、何宗何派なのか。

何宗だけでもいいですよ。それがわかれば、十分です。

 

 

大切なのはここからです。

 

 

何宗何派がわかれば、それをちょっと調べてみる。Wikipediaでいい。

その宗派の教えも大事ですが、もうちょっと物理的なことを調べます。

 

例えば:

 

総本山(その宗派の社長的なお寺。だいたい1つ)

大本山(社長的なお寺に次ぐ、役員的なお寺。いくつかある場合が多い)

開祖(その宗派を開いた昔のお坊さん)

本尊(その宗派で主に祀る仏様。お寺ごとに違う場合も多い)

 

真言宗御室派の場合だと:

 

真言宗の総本山=高野山の金剛峰寺

御室派の総本山=京都の仁和寺

大本山=大聖院(広島)、金剛寺(大阪)

開祖=弘法大師空海、御室派は宇多天皇

本尊=お寺ごとに異なる。仁和寺だと阿弥陀如来様

 

…このくらいであれば、「○○宗○○派」とググったWikipediaに全て書いてあります。

 

こういったことから、例えばりょうき家は、というかりょうきは:

 

真言宗、弘法大師空海、高野山、仁和寺、阿弥陀如来様etc. がキーワードです。

 

こんな風にね、あなたの仏縁キーワードが必ずいくつか出てくるんですよ。

あるいは何か数字でもいいですよ。そのお寺開山の年号とか。

 

とりあえず今日はここまでにしましょうか。

 

…では珍しく宿題を(笑)。

 

ご家族に聞いて、ググってみましょう。

上記の私の例のように、何かしら仏縁キーワードを出してみる。

 

それらがどう発展するかは、また明日。

 

 

どうぞ良き1日を(^^)

おはようございます。りょうきです。

 

もう200講が近いですね。早いもの。

 

こういう感じで内容を綴るのも、実はひょっとして終盤に差し掛かっていて。

200講でぴったり終了ではないでしょうが、その後何百講までもいかない。

 

まぁ結局思いつくままに書いてますんでね。上記すらも諸行無常。

相変わらず平日朝の番組だと思って読んでくだされば、嬉しいです。

 

 

この時期になると、懐かしいなと感慨に耽ることがあります。

神縁・仏縁の話なんですけどね。

 

先週ちょっと書いた話が、そこそこ反響をいただいてね。

なんて書いたっけ。仏縁がどうとか。それって何だというね。

 

簡単に結論を少し。

 

他の国では知りませんが、日本で生まれた時点で、必ず神縁・仏縁があります。

 

特定の神様となぜかご縁が深いとか。これを神縁といいます。

特定の仏様となぜかご縁が深いとか。これを仏縁といいます。

 

日本人ならば、誰でも生まれつき何かしらあります。必ず。

 

仮にご両親のどちらかが海外のご出身であったとしても、そもそも生まれが海外であったとしても、日本人の血が流れている、あるいは日本に住んでいるなら、必ずあるものです。

 

その神縁・仏縁を大切にすると、人生がなかなか捗ります。

運もよくなるし、心の持ちようみたいなのが変わる。

文字通り、人が変わることも多いです。

 

しかし、ご自身の神縁・仏縁を知らないまま過ごす人が非常に多い。もったいない。

 

ということで、ご自身の神縁・仏縁を是非知ってみましょう、というね。

 

日本人は、すごく不思議な民族です。

自称無宗教が非常に多いものの、本当に無宗教な人はどうやらいない。

 

本当に無宗教ならば、極端な話、誰かが亡くなるとその亡骸やお骨をその辺に埋めることに抵抗がないはずです。

なぜなら、結局宗教というのは亡くなった後とか「見えない世界」を意識したうえでの「見える世界」での動作そのものだからです。

 

誰かが亡くなると、お葬式を行う。この時点で、見えない世界を意識している。

つまりこの時点で、立派な宗教や信仰が成立している。

 

加えて、一年の節目みたいな時期には神社やお寺に行く。

なんだかんだ思うところがあって、合掌して祈る。受験生とか特にね。

 

と思ったら、例えば新興宗教とかの勧誘には拒否反応を示す。

宗教はなんだか怪しいもの、みたいな気持ちもあるにはある。

 

不思議な民族ですね。

 

閑話休題。

 

神縁・仏縁を理解すると、以上の背景も想像ができるかもしれません。

 

しかしそういった体系的なこと以上に、もっと大事なことがあって。

 

なんというか、ちょっとびっくりするようなことにも気づくものです。

見えないんだけど、証明できないんだけど、明らかに偶然ではなかろうことが見える。

 

その時に自身で思うことが、一番大切なことであってね。

 

 

前置きが長くなりました。

明日から、シリーズで書きます。

 

ひょっとすると、目先の懸念とかがどうでもよくなるかも。

少なくとも、ちょっと世界観が変わると思います。

 

お楽しみにどうぞ。

 

 

どうぞ良き1日を(^^)

おはようございます。りょうきです。

 

般若心経の話なのか受験の話なのかわからなくなってきた(笑)。

 

要するに、欲しい未来があるなら、そこに繋がる式を立てろと。

 

その過程で大事なのが冷静さと素直さで、邪魔になるのが頑固さとか。

 

ここでちょっとカルマの話を掘り返すんですが。

 

例えばね、カレーを作りたいとするでしょう。

で、材料を買うべくスーパーに行くんですよ。メモも持っている。

目の前にニンジンと玉ねぎが並んでいて、それは見えてはいるんですけど、「なぜか毎回納豆とネギを買っちゃう変な癖」みたいなのが、人間にはあったりします。

 

いや、頭ではわかってるんです。メモにもそう書いてある。目の前に並んでる。

なのに、なぜか手がニンジンを掴もうとしない。手が言うことを聞かない。

頭ではわかってるのに、いつも手が勝手に動いて、必ず納豆とネギを掴んでしまう。

 

これが、第158講の「個人の失敗方程式」です。

つまりあらゆる場面において、納豆とネギをうっかり買ってしまう悪い癖。

 

それはつまり、あらゆる受験において、例えばうっかりサボってしまう悪い癖。

 

そうやって、肉じゃがを作る時も、シチューを作る時も、必ず納豆とネギを買ってしまう。

それらを材料に入れてしまうので、何を作っても必ず納豆とネギが原因で失敗する。

 

個人のカルマってね、こういうことなんですよ。

 

人は生きていく中で、いろいろな未来を望みます。

その未来を創り上げるのは他ならぬ自分なんだけど、その自分になぜか変な癖がある。

で、その癖がある限り、どんな未来を作ろうとしても必ず失敗するんです。

 

つまりカルマというのは、「あらゆる方程式に入り込もうとする、わけのわからん項」です。

 

あるでしょう、そういうの。自覚できるでしょう。

そのせいであなたは高校受験に失敗していて、友人関係とか家族関係とか、学校生活とか、いつもそのせいで何かおかしくなってる。そしてこの度の大学受験も、そのせいで何かおかしくなってる。

 

だからその大学受験も、きっと失敗しちゃう。もう結果は見えている。

 

どうすればいいか。

 

納豆とネギを買わなければいいんです。力づくで!

 

ここでね、やっと筋肉の出番なんですよ。もう最後は力づくなんです。

うっかりいつも通り納豆とネギに伸ばした右手を、左手でつかんで力づくで引っ込める。

で、左手の筋肉で、右手にニンジンをつかませる。生まれてはじめて、ニンジンをつかませる。

 

そうするとね、生まれてはじめて、ちゃんとしたカレーが作れるんですよ。

以降もね、スーパーに行くたびに左手の筋肉を使うんです。

 

こうやって、自分の悪い癖を力づくで直していく。ものすごく体力使うけどね。

でもね、そうやって一つ癖を直してごらん。なんかすごくその後が変わるから。

 

この力づくで癖を直す作業は、自分でするしかありません。

誰かにお金を払って直してもらうことはできません。

 

ということで、気力と体力を頼りに自分の力で頑張ってください。

何にも頼ることはできず、自分に頼るしかないんだから。

 

心細い? 

 

大丈夫です。ある言葉を紹介します。心の燃料としてどうぞ。

 

その言葉は

 

大いなる神の言葉で(是大神呪)

大いなる悟りの言葉で(是大明呪)

これ以上のない言葉であり(是無上呪)

これと同じだけの言葉もない(是無等等呪)

 

全てのよからぬことを消すことができます(能除一切苦)

本当です嘘じゃない(真実不虚)

 

だから、頭の修行に必要な言葉です(故説、般若波羅蜜多呪)

 

その言葉は(即説呪曰)

 

ぎゃーていぎゃーていはーらーぎゃーてい

はらそうぎゃーていぼーじーそわか

(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶)

 

 

 

…般若心経は、正式には「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)」といいます。

 

摩訶=大いなる

般若=智慧・頭脳

波羅蜜多=修行

心=心

経=世界中どこでも当てはまる教科書

 

月曜日から今日まで続いた当ブログの内容を、たった262文字の漢字に込めたのが、般若心経です。

 

第71講の通り、この世を学校として、我々は学生だとして。

神様が学園運営であり、仏様は先生方であり、その教えを我々はこうている。

 

仏様に丸投げしたり依存するのではなく、学生が自分の力で考え、自分で解決する。

先生方は、そのヒントとか本質を教えてくれるわけで、自分たち学生は自らいろいろのめり込んで、攻めの姿勢で学ばなければならない。

 

時に邪魔も入るものだけど、その邪魔は実は自分の中にあるものなので、結局は自分との戦いになる。だから余計に苦しい。

 

それを頑張れ頑張れと、時に不思議なパワーみたいなのを載せて、先生方が応援の言葉をくれるんです。

 

それが最後の真言、「ぎゃーてい ぎゃーてい」なんでしょうね。

つまり仏様からの、応援の言葉。

仏様の言葉だから、何語にも翻訳できない。この世の言葉ではないから。

 

この真言は、いろんな解釈があります。

そのうち一つは、「お望み通りの解を出すために、方程式の項を整えてくれる呪文である」という説もあるんですが。

 

私には、「ぎゃーてい、ぎゃーてい」は、仏様からの「頑張れ、頑張れ」に聞こえますね。

 

その「頑張れ、頑張れ」を聞いて、自分の悪い癖を自分の目で明らかに見て、自分の筋肉でにんじんを掴んで、自分の力でカレーを作る。

 

…あ、ほんとだ。項が整ったわ。

 

なるほど、方程式の項を整えてくれる呪文とは、こういうことか。

 

貴い応援です。先生方からの、心のこもった応援。

 

ありがたや。先生、俺、頑張ります(泣)。

 

 

合掌。良き週末をどうぞ(^^)

おはようございます。りょうきです。

 

般若心経。「全ては掛け算」。カレーと同じ。

 

この「全ては掛け算」を応用してですね。

「その解が気に入らないなら、どこか項を変えてみろ」が、お悩みとかに使える。

つまり、「カレーが気に入らないなら、ルーを醤油に変えて肉じゃがにしてしまえ」。

 

そしてもう一つ。「全ては掛け算」の応用があります。

 

未来です。あなたのお望みの未来。これすら掛け算で作っていくわけだから。

「カレーを作りたいなら、カレーの材料揃えて、カレーの作り方をしなさい」。

 

例えば、東大に入りたいとする。「東大に合格する」が、カレーです。

そのためには、いろいろと必要です。それがにんじんとか。

 

理論上、誰であっても東大には合格できます。材料を揃えて、ちゃんとレシピにそえば。

それがそうもいかないのは、材料に変なものが入っているか、材料が揃ってないか。

あるいは、レシピ通りに作ってないからです。だからカレーができない。

 

ここでは、多浪生とその他に分けて考えないといけません。

 

多浪生の場合、どちらかというと「いつまでたってもカレーができない」です。

ということはつまり、先ほどの「お悩み」に近い。

 

毎年毎年カレーを作ろうとするんだけど、毎年毎年肉じゃがができる。

 

なんで俺は肉じゃがなんだ、カレーが欲しいのに!

とか言いつつ、やはり前年と同じことをしているとまた肉じゃがができる。

 

これも「あきらめる」べきでしょうね。つまりちゃんと冷静に見る。

合格できないのには、どこかでかけるべき項を間違えているからです。

それを変えないことには、ずっと同じ料理ができてしまう。

しかしそれを変えてしまえば、ポンと合格したりする。

 

多浪生に対して、現役生とか1浪の子とかは、ちょっと違います。

どちらかというと彼らは「これから」なので、そもそも料理をするのが初めてです。

 

その場合、カレーが欲しいなら材料を揃えて、レシピに従えば、必ずできます。

ということで、順番に材料を買い、手順を順にこなしましょう。

 

そういう意味では、予備校や塾に入る子は非常に有利です。

カレーを作りたい子向けに、最初から材料を用意して、作り方まで教えてくれる。

だから理論上、予備校の言う通りにさえしておけば、誰でも合格します。

 

それでも現実がやや異なる原因は、それぞれの条件が違うからです。

偏差値が30の子と60の子がいて、それぞれ1年しか時間はなく、それぞれ東大に行きたいと思っているとか。この場合は、時間という制限により、30の子の合格は難しい。

 

そしてもう一つが、素直さでしょうね。

予備校の講師や職員は、生徒を合格させる方向でしかものを考えません。

生徒を落とすために何かを喋ったり、指示を出すことはないんです。

それが1年間の中で無数の指示として出るわけですが、それを全部こなせるかは別問題です。

「ある先生はこう言うけど、なんか気に入らない」みたいに思うのは勝手だけど、それを実行しないでおくと、東大合格までの途中式で早速一つ項を飛ばしたことになるでしょう。

 

この時点で、もうすでに結果が少しずれてきている。

 

だからね、受験生の皆さん。

 

その一挙手一投足が、あなたのお望みの未来への項の一つなんですよ。

例えば今日自習をサボってコンビニに行くとね、解が変わってきちゃうんです。

あなたの1秒が、あなたのお望みの未来を作る項であり係数なんだから。

 

そうすると、今からしようとするその行動は、ぜひ未来への係数として機能してほしいよね。

だったら、しかるべき係数にしなきゃ。つまり勉強しなきゃ(笑)。

 

東大生ってね、確かにIQ的にすごい人もいますが、そういうのは少数です。

だいたいは、我々と同じです。つまり普通の人。

 

ある東大生曰く「僕は別に頭がいいわけじゃありません。ただ言われた通りに勉強しただけで、その過程で周囲が勝手に脱落してくれただけだと思います」と。

 

彼は、東大合格に必要な途中式を正確に作ったんです。

で、最初はみんなそうするつもりだったはずが、途中からだんだん項を飛ばしたり勝手に係数を変える子が増えてきた。その子達はいわば勝手に落ちていったわけで、彼がひとり優秀だから勝ったわけではないと。

 

非常にシンプルですね。でも怖いね(笑)。

 

やっぱりね、素直さって大事なんです。何においても。

はい、じゃあお勉強をどうぞ(笑)。

 

どうぞ良き1日を(^^)

おはようございます。りょうきです。(金剛合掌)

 

どんどん僧侶化していく。いいんです。

 

昨日の話。「世の中の全てものは、材料が集まってできた、料理なのよ」

これをもう少し深く掘り下げます。

 

あなたも、カレーも、シャーペンも、何かしらの材料の掛け算でできてます。

でね、これには続きがあって。

 

「目に見えるものも、目に見えないものも、全てそうなんだよ」。

 

あなたの体とかカレーとかシャーペンは、目に見えるものです。

しかし目に見えないものでさえ、こうやって材料の掛け算でできていると。

 

例えば、あなたが今抱えておられるそのお悩みもそうです。

お悩みって、目には見えません。しかしこういうものですら、カレーと同じ。

 

お悩みというカレーを、今あなたは目の前に出されている。

なんでカレーがあるんだと嘆くのもいいですが、ちょっと考えてみる。

そこにカレーがあるのは、カレーの材料でカレーの作り方をしたからでしょう?

 

例えばカレーは最後にカレールーを入れますが、それを醤油にしてたら肉じゃがになっていたはずなんですよ。

 

もっと極端なことを言えば、そうやって材料のうちたった一つを変えるだけで、カレーは肉じゃがに変わってしまう。

 

だからね、目の前にカレーを出されて嫌なら、遡ってどこかでカレールーを入れるのを醤油に変えたらいいんじゃないですか。

 

ならば、そのお悩みの構成要素を自分で冷静に考えないといけません。

 

どういう経緯で、どういう要素が合わさって、そのお悩みなったのかを考えないと。

で、そのうち例えば「これは自分の勘違いだった」とか「これは事故だと言える」みたいな項が一つくらい見つかるはずなので、そこでそれを「勘違い」「事故」みたいな係数に直して再び掛け算をしてみる。

 

そうすると、当初出されたカレーでは、もはやないはずです。

バーモントカレーがジャワカレーに変わるくらいの変化なのかもしれないけど、大抵はもはやカレーではなくなることが多いです。肉じゃがとかになるはずです。

 

ここで必要なのが、「冷静さ」でしょうね。

自分のお悩みの構成要素を、自分で冷静に探せるかどうか。

 

蛇足ですが、「諦める」という言葉がありますが、これは実は仏教用語です。

ギブアップとかじゃなくて、本来は「明らかに見る」です。

 

つまりそのお悩みの構成要素を、冷静に、そしてはっきりと直視する。

辛い現実なのでね。目にしみると思いますけど、そのしみる原因をちゃんと見て探すんです。

 

で、目の前で刺激臭を放つ解に至るまでの途中式が見えたら、どの項や係数を変えたら解が大きく変わるかが見えてくる。

 

「悩み事は、見方を変えれば軽くなる」とか言いますが、こういうことです。

「悩み事は、存在しない。ただあなたが作り出しているだけ」も、そうかも。

 

見つけたら、その項や係数だけをちょっと解釈を変えてみる。

うまくいけば、カレーが全く違う料理になります。

 

第161講あたりで書いた、因縁因果の話は、こういうことです。

材料とか途中式が「因」であり「縁」、完成したものや解が「果」です。

 

般若心経は、「空(くう)」と「色(しき)」から「因縁因果」まで示します。

 

 

仏教について私が好きなのは、こうやって自分で考えさせるところです。

公式みたいなのを教えて、じゃあその問題を自分で考えてごらん、みたいなスタンス。

一見するとハードモードでもありますが、でも頭は鍛えられますよね。

 

 

ということで、今お抱えのお悩み、まずは紙に書いてみましょうよ。

 

そもそもの経緯から、途中の出来事も全て。たくさん書くと思います。

そのうちね、これかなーと思う要素が出てきます。ここで計算を間違えたかな、と。

 

もうそのお悩みは、9割がた解決してます。あとはその係数を何かに変える。解が変わる。

わからなければ、先生に質問に行ったらいいんです。味方はたくさんいるんだから。

言うは易しだけど、やってみると見えてくるよ。

 

どうぞ良き1日を(^^)