またいつか、「いってらっしゃい」 | ぱんだ一家と、ママの病気のお話

ぱんだ一家と、ママの病気のお話

3人の子供達がいます。
3番目出産でとんでもない事に。
家族といられる幸せをかんじなから、闘病生活送っています。下垂体前葉機能低下症 対麻痺の後遺症あり。

ブログには、子供達それぞれの事、私の事がかいてあります。

祖母が亡くなりました。

102歳でした。

最後の一年は、老人ホームに入っていたそうです。お友達も出来て、楽しく暮らしていた中、急に食欲がなくなり、黄疸がでたそうです。

亡くなる1ヶ月前に病院で検査する事になり、

「行ってくるけんね」と元気に挨拶したそうです。


検査結果が凄く悪く、癌末期でした。

持ってあと数週間。

でも、1ヶ月近く頑張りました。

最後は、病院の許可がでて

家族と過ごせたそうです。最期は苦しまず眠るように。



私達に連絡が来たのは、亡くなった後でした。


あんなに迷っていた父は、すぐに帰ると決めました。何か考え込んだ様子でした。


家族でいざこざがあってから10年以上。



いざ葬儀場に着いたら、父の兄嫁がすぐに父を見つけ

「〇〇君(父)、来てくれたんじゃね。ありがとうね。」


前日から父と母は、自分達が歓迎されないのではないかと、不安で不安で仕方ない様子でした。


でも、兄嫁の一言ですぐに不安は無くなったみたいでした。

父は姉2人、兄1人の末っ子です。


いざこざがあった長女もすぐに父にかけより、

「よく来たね。ご飯を食べてゆっくりしてね」


次女、次女の夫は

父を見つけて、ずっと泣いていました。


長男も、無口ながら喜んでるのだと思います。


父はすごく人に尽くす人です。

うちは、毎日誰か人が来て宴会していました。

誰も来ない日はなくて、私はそれが大嫌いでした。小さな街なので、学校の先生まで集まって飲んだくれる。時には、お巡りさんまでいたりして笑。



父の周りには人集りができ

「元気じゃったんか。急に居らんようになって、みんな心配しとる。毎日毎日宴会して楽しく過ごしてた日が忘れられんわ。」

そう言って、皆んな涙目ながらに再会を喜び会いました。


皆んな歳をとり、白髪になり、大病したり、亡くなったり。

父のお友達も、父のお世話になった人も既に亡くなっていて。

「会いたかった」そう言うしかないのです。




葬儀が始まる前に、

祖母の顔を見に行きました。

すごい安らかで、とても102歳には見えませんでした。

お酒と踊りとお洒落が大好きで、

いつまでもきれいにお化粧して。

私は正直近寄り難い雰囲気の祖母でした。



父が涙を流しているのを私は初めて見ました。

そんな父を見て私は泣いてしまいました。



出棺の前に

皆んなで沢山の生花を入れて、

さよならの挨拶をして



長女が、一生懸命祖母に

「お母さん、〇〇君が帰ってきたんよ。帰って来てくれたんよ!聞こえとるじゃろ!心配しとったんよね、でも、〇〇君帰ってここにおるんよ」と叫びました。



父は、祖母の顔にそっと手を当てて



「もう冷たくなっとるんよ。触っても起きんし、冷とうなっとる…」と私にいいました。




棺に蓋をする最後のとき、


父は、「行ってらっしゃい」



凄くすごく大きな声で、叫びました。






父の胸の内は誰にもわかりません。

きっと後悔ばかりしてるのだと思います。




コロナの緊急事態宣言が開けて

こうして皆んなでお見送りする事ができて

本当によかったです。


通夜の参列者は300人以上いたと聞いて驚きました。




またね、「元気でおってね。」


そう言って、また必ず再会しようと握手して

私達は帰りました。




父方の祖父が亡くなった時、

私の父が遺体を引き取りにいき、

海が大好きだった父のために、

海に車をとめ、別れの時を2人で過ごしたそうです。




私はこの海が大好きです。

家から見る景色


帰る途中に、虹がでていたんです。

きっと祖母は安心したんだと思います。

可愛い末っ子と会えて。