魂を揺さ振るものに惹かれる…(宮崎奕保エキホ禅師編①) | フォゲットミーノットのブログ

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曹洞宗大本山永平寺第78世貫首の名言です。



厳格な仏教僧として知られ、肉は一切食さず生涯独身を貫かれ、史上最高齢の住職として、100歳を過ぎても若い僧と修行を続け、2004年にNHKのドキュメンタリー番組「永平寺104歳の禅師」で取り上げられ、大きな反響を呼んだことでも知られているそうです。
(2008年、満106歳没)




私は事前に番組欄も見ず、たまたま偶然にもつけていたテレビで映像が飛び込んできました。


師は8歳で父と死別し、
28歳で兵庫県のお寺の住職に。
45歳で福井県の永平寺の修行僧の教育指導にあたる
92歳から貫首を務められる。




自然は立派やね。


わたしは日記をつけておるけれども、


何月何日に花が咲いた。


何月何日に虫が鳴いた。


ほとんど違わない。


規則正しい。


そういうのが法だ。


法にかなったのが大自然や。


法にかなっておる。


だから自然の法則をまねて人間が暮らす。


人間の欲望に従っては迷いの世界だ。


真理を黙って実行するというのが、大自然だ。


誰に褒められたくも思わんし、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえるということもない。


時が来たならば、ちゃんと花が咲き、


そして、褒められても、褒められんでも、


すべきことをして黙って去っていく。


そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。


学ぶということは、真似をするというところから出ておる。


一日真似をしたら一日の真似や、


それで済んでしまったら。

二日真似して、それであと真似をせなんだら、


それは二日の真似。


ところが一生真似しておったら、


真似がホンマもんや。


だから、真似が真似になってしまわんようにすること、


それが大事や。


そしてそれは、口で言うより実行や。


善いこともせんのに、


善い報いを得ようとするのは、欲望だ。


それは転倒と言って、ひっくり返った考えや。


人間はいつ死んでもいいと思うのが、


悟りやと思うておった。


ところがそれは間違いやった。


平気で生きていることが、

悟りやった。


平気で生きておることは難しい。


死ぬときが来たら死んだらいいんや。


平気で生きておれるときは、


平気で生きておったらいいんや。



人間は、わがままが自由やと思っておる。


そうではなくて、ちゃんと型にはまったものが、


平生底(日常の姿)でなくてはならない。


だから、当たり前のことをしなかったらいかん。


スリッパをそろえるのが当たり前のこっちゃ。


わしも修行をしておるが、修行をしておるんではなくて、


当たり前のことをやっておるんや。


それよりやることはないんや。


スリッパが曲がっている人は、



心も曲がっている。





キラキラシンプルな言葉ですが、仏の教えは奥が深いですね。


でも妙に納得してしまいます。