みなさんこんにちは、ナグです。
依然、猛暑が続いていますが、皆さんお元気でしょうか?
お盆休みも終わり、”通常営業”に戻られている方も多いかと思います。
今日は、”失敗”につきものの「後悔」について、少し書きたいと思います。
そのまえに、前回の記事で書いていた、
> 「努力は必ず報われる」と「努力したものが成功するとは限らない・・・。」が
> 両方とも真実であると、僕が思う理由
についてお話してから、進めたいと思います。
まず、「努力は必ず報われる」というのは、内的な体験として自分自身の成長の糧になる。という意味において”必ず”というふうに僕は解釈しています。「精いっぱい努力したか?それとも、余力を残して流したのか?」というのは、自分自身がわかるものです。
現実の出来事や体験においては、『全力を出し切ったけれど、望んでいる結果には及ばなかった。』ということは、実際あります。
ベートーベンの言葉の『努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功した者は必ず努力している。』というのは、僕の見方から説明すると、対外的な結果、という意味です。
努力は必ず報われる。と、このベートーベンの言葉を一つにまとめるとするなら、
”現実的な世界において「成功」という結果を求めるなら、努力を惜しんではいけない。
たとえ、望む成功に到達できなかったとしても、あなたの努力は自分自身の内側において、
確実に成長の糧となり、あなたが望んでいる形ではないかもしれないけれど、
いずれ理解できる形として報われる。”
という感じでしょう。
で、今日のテーマの『後悔』について、ですが今までの話の流れを順に追っていくと、わかると思いますが、
”後悔することができる、ということは、自分自身が成長したという証である。”
ということなのです。
その時その時において、人は自分にとっての最善を選択している。そして、時間が経過し、何らかの体験をして(対外的な”結果”を目の当たりにして)、自分自身の考えや行いやそういうったものを振り返るわけです。
『あのとき、ああしていれば(ああしなければ)よかった。』
という、自分を責める思いを”後悔”というのでしょうか?
その瞬間においては、自分は最善を選択した。しかし、今、”そのときよりも、より良い選択があることに気付けた”からこそ、このような思いが心に浮かんでくるのでしょう。
世の中には、ワンチャンスのものって、結構あります。
いろいろな採用試験で、年齢制限があり、自分にとっては今年が最後のチャンス。というような状況もあると思います。
そういう”一度限り”の機会を、その視点だけで見てしまうと、自分にとっての成長を見逃してしまうことにもなるでしょう。
「対外的なもの」と「内的なもの」を分ける、ということ。
対外的な結果としては、再挑戦することも、訂正や修正をする余地がないもの、という場面はいくつもありますが、自分自身の内的な部分については、今この瞬間から”新たな選択”を取ることができるし、気づいたその瞬間に、自分の新しい可能性が芽吹いていることに意識的でありたいと思うのです。
人は、何とでも言います。
対外的な「結果」だけをみて、いろいろな判断を下します。
自分の内側、こころのプロセスまで見て、言葉をかけてくれる人は少ないのです。
周りの人のさまざまな”判決”を、自分として捉えるのではなく、自分の内側にある成果(成長の種)をしっかりと自分のものにしていきたい。頑なになるのではなく、自分の芯のようなものをしっかりと持って、さまざまな人の声に、それらは「ある一つの意見」として、捉えることができるようになると、後悔や自責の念に苛まれて、前に進んでいくことが難しくなることはなくなってきます。
「後悔できる、っていうことは、キミが成長した、ってことなんだよ。」
それでは、また。
ナグでした。