こんばんは、ナグです。
昨日は、情報の発信と受信ということで少しお話しました。
何かを伝えるために発信する以上、「このように受け取ってほしい」という思いや意図があり、そして、「受け取り手」であるわたしたちには、常に届けられてくる情報を”どのように受け取るのか?”という、選択が迫られている、ということと、人が情報を受け取る時に必ずある傾向を説明しました。
何かを伝えるために発信する以上、「このように受け取ってほしい」という思いや意図があり、そして、「受け取り手」であるわたしたちには、常に届けられてくる情報を”どのように受け取るのか?”という、選択が迫られている、ということと、人が情報を受け取る時に必ずある傾向を説明しました。
簡単にまとめると
・情報には「こう受け取ってほしい」という発信者の意図がある
(明らかにされているか、隠されているかは別として)
・人は自分が「それは正しい」と思う情報に反応し、受け取る
・そのことを意識できているか、そうでないかで視野が広がるか狭まるかが決まる
・ちょっとひっかかる、気になるモノ(情報)は、自分の内面を知る鍵になる
・疑いを味方につけて、答え合わせを後でする
ということをお話しました。
で、今日は少し、「疑いを味方につける」ということについて、この話は以前もブログにかいているのですが、改めてそれを説明し、ちょっと突っ込んでみたいと思います。
で、今日は少し、「疑いを味方につける」ということについて、この話は以前もブログにかいているのですが、改めてそれを説明し、ちょっと突っ込んでみたいと思います。
わたしたちは、育てられる中で「学校教育」というものを受けます。小中学校は義務教育ですが、高校、大学と、9年~16年間いわゆる『学校』で学んでいくわけです。
そのなかで、どのように出来事や物事と向き合うのか?とか、どのように自分の考えを持つのか?ということはほとんど教わらないまま、『正解を出すこと』や『間違えないこと』を叩き込まれて育っていきます。
そのなかで、どのように出来事や物事と向き合うのか?とか、どのように自分の考えを持つのか?ということはほとんど教わらないまま、『正解を出すこと』や『間違えないこと』を叩き込まれて育っていきます。
そして、社会に出て初めて、自分自身と向き合うことや自分の考えを持つこと、その考えを人と分かち合うことを実際の人間関係の中で、いわば「実戦形式」でいきなり学ばなければならないのです。
わたしたちの社会は科学至上主義のようなところがあります。
目に見えるモノ、形のあるモノ、証明できるモノ、科学的根拠のあるモノが”リアル”で、それ以外は十分な信用に値しないというようなところがあります。
本来の科学は、そうではありません。
先端を行く科学者の人たちは逆のことをしているのです。
「まず、正しいやり方、こうするべきことがある」、という私たち多くの人たちが考えてしまいがちな順番ではないのです。
「まず、正しいやり方、こうするべきことがある」、という私たち多くの人たちが考えてしまいがちな順番ではないのです。
どういうことかというと、「科学的」な思考には、まず現象を観察するということから、仮説を立てます。
そして、その仮説を実証するために、実験をしたり、データを集めたり、分析したり、ということをして、証明していくのですが、導きだされた結果が仮説と一致しなければ、再度、実験方法を改めてみたり、データの収集範囲を変えてみたり、分析方法を変えたり、という修正を加えます。
流れとしては
流れとしては
「仮説」→「検証」→「結果」→「判断」
なわけで、検証の結果が仮説と一致していなければ、科学者は
「自らの立てた仮説が間違えているのかもしれない」
と、再度検討するわけです。
しかしながら、多くの人が同じような困難な状況を繰り返してしまうのは、
しかしながら、多くの人が同じような困難な状況を繰り返してしまうのは、
『私は正しいけれど、このような状況に陥ってしまうのは、
外が(相手が、環境が、社会が)間違えているからだ。』
という論理の組み立てになってしまっているからなのです。
以前、ある男性に聞いたことがありました。
という論理の組み立てになってしまっているからなのです。
以前、ある男性に聞いたことがありました。
彼は、離婚を数回繰り返し、パートナーとの良好な関係が築くことが難しいようで、最後はいつも女性に去られてしまう人でした。
『もしかしたら、何か自分が知らない、別の方法がある。って考えたことはない?』って。
『もしかしたら、何か自分が知らない、別の方法がある。って考えたことはない?』って。
そうすると、彼は
「そんなことは考えたことがない。」
と、答えたのでした。
自分の正しさにこだわりすぎると、間違えているのはいつも自分以外の誰かや何かです。
そして、その立場から自分の正しさを貫こうとすると、行く先は常に戦いが待っています。相手や状況、社会、その他自分以外の何かを変えなければ、あなたの正しさは証明されません。
よくスピリチュアルな話の中で『ジャッジをしない』という話が出てきますが、ジャッジしないということと、判断しないということは別です。
科学的な実験で、考えてみてもらえるとわかると思います。
仮説を立てて実験をした。その結果、仮説通りではなかった。実験のプロセスに問題がなかったか?必要なデータが不足していなかったか?と、検証していきます。もしかしたら、仮説そのものを考え直す必要があるかもしれません。
仮に実験プロセスに間違いがあったとしても、データが不足していて不十分だったとしても、仮説そのものが間違えていたとしても、それらは『悪』ではありません。
そして、その立場から自分の正しさを貫こうとすると、行く先は常に戦いが待っています。相手や状況、社会、その他自分以外の何かを変えなければ、あなたの正しさは証明されません。
よくスピリチュアルな話の中で『ジャッジをしない』という話が出てきますが、ジャッジしないということと、判断しないということは別です。
科学的な実験で、考えてみてもらえるとわかると思います。
仮説を立てて実験をした。その結果、仮説通りではなかった。実験のプロセスに問題がなかったか?必要なデータが不足していなかったか?と、検証していきます。もしかしたら、仮説そのものを考え直す必要があるかもしれません。
仮に実験プロセスに間違いがあったとしても、データが不足していて不十分だったとしても、仮説そのものが間違えていたとしても、それらは『悪』ではありません。
単に「間違いがあった」「理解できていないところがあった」「必要な要素が何か不十分だった」というだけのことです。
こうした、判断をし、再検証を繰り返して、初めて実証され、それが科学的に根拠のあること、ととして証明されていくわけです。
こうした、判断をし、再検証を繰り返して、初めて実証され、それが科学的に根拠のあること、ととして証明されていくわけです。
『疑いを味方につける』ということの意味は、
『もしかしたら、わたしが間違えているのかもしれない。』
違う言い方をすると、
『わたしがまた気づいていない、他の方法や、他の考え方やなにかがあるかもしれない。』
違う言い方をすると、
『わたしがまた気づいていない、他の方法や、他の考え方やなにかがあるかもしれない。』
という視点を持つことなのです。
「自分の知らないことがある」という事実を受け入れることは、
自分を新しい可能性へとより大きく開くことです。
「わたしにはまだ、知らないことがある。」
このことを受け入れることで、あなたは自分が信じているもので、自分を閉じ込めてしまうようなことがなくなることは間違いありません。
知らないことがある、ということは、新たに知る、気づくという喜びがあるということなのです。
知らないことがある、ということは、新たに知る、気づくという喜びがあるということなのです。