昨日、バレンタインデーに関連して、記事を書かせていただきました。
聖バレンタインへの「祈り」を挙げています。
賛同された方の祈り合わせへの参加、ありがとうございます。
『聖バレンタインの祈り』
https://ameblo.jp/m-nagura-mr/entry-12439806686.html
言葉の力、というものがある。
僕自身はそのように信じているのですが、
特に『祈りの言葉』を綴るとき、それを感じます。
“想いを伝える”
“心を通い合わせる”
このことで、たくさんの人が悩んだり、傷ついたり、葛藤したり、ということを経験するのだと思うのですが、スピリチュアルな理解を深めていけば行くほどに、“言葉を使うこと”の大切さを実感します。
確かに、霊的な領域や、高次元の存在は、テレパシーやエネルギーという
“非言語(non-verbal)”のメッセージがほとんどです。それを受け取り、明確な形として理解するには
どうしても“言葉”を用いる必要があります。
“言葉として表現すること”
これって、簡単なことではないと思います。また、現実的なつながりを築き上げようとするなら、
ここを避けて通ることはできないとも感じています。
「口下手」という言葉がありますが、“単に話すのが下手”という意味ではないでしょう。
言葉巧みなことと、上手に気持ちを伝えられることは全く別です。
スピリチュアルな感覚や感性を開けば、確かに“言葉になる前の”その人の想いを感じ取れるように
なってくる、という一面もありますし、相手の意識に上がっていない思いを受け取れるようにもなります。
だからといって、テレパシーやエネルギーがすべてではない。
「お互いの意識に共通する認識」を築き上げようとするなら、時間を費やし、言葉を費やし、
ひとつひとつ積み上げていくことが大切なのだろうと、僕は思っています。
昨日の記事で、『聖バレンタインの祈り』を文章にしてみたのですが、この文章を読んだとき、
目にしたとき、ご自身の想いに触れることができた、という方もおられるようです。
“言葉になった思い”
これは、多くの人に、明瞭に伝わる可能性が一気に増えます。
もちろん、受け取る人の受け取り方によって、『言葉』というものは意味が変わるものですから、
言葉が絶対ではありません。
「言語と非言語」
このはざまにある、深い思いを感じとれるように、心や魂を澄ますことが、
本当の意味での霊的な感覚の成長や覚醒なのだろうと感じているのです。