「自分」というものが、いったいどんな風に出来上がってきたのか?
なにか障害や問題と思えるような出来事に遭遇したとき、
実はそれって、「自分のことを知るチャンス」だったりする。
それは、今までの自分を改めることにつながる体験になるかもしれないし
はたまた、全く新しい選択をとることを促されている機会かもしれない。
『自分』というものに価値を認めてください。
ということは、よくセラピーのなかでも言われたりする。
“自分を大事にする”というように。
しかしながら、自分を大事にするあまり、考え方が凝り固まってしまうこともある。
信念を持つことと、頑固になることは違うし、
柔軟に対応することと、優柔不断は違う。
もし、あなたが今何かに迷い、壁にぶつかっているのだとしたら・・・。
求めるのは「今までのことがどうだったのか?」ということも、その状況を理解するために
必要であることなのは確かだけれど、それ以上に大事なのは、
『今までのことを踏まえて、これからどうするのか?』
ではないだろうか?
そして、「どうするのか?」という方法論は、「どんなふうに考えるか?」ということが
その基盤になっている。
だから、「考え方」を変えないで、「方法」だけを変えても、うまくはいかない。
さらに「考え方」は一日では変わらない。
じっくりと、慎重に、時間をかけて体験を積み上げ、そして、人の考えは変わる。
短期間で変わったかのようになったとしても、それはまたすぐにかつての自分と
取って代わられる。
“こころは、鍛えるものではなく、磨くものだ。”
これは、僕が敬愛するある人の言葉だけれど。
こころというものは、傷つかないように鍛え上げるのではなく、
ほんの細やかな傷でも感じ取り、そして、それを受容し超えられるように。
繊細で、やわらかで、しなやかであるべきなんだ。
若い青竹のように、しなやかにしなる。
一本の芯があるけれど、がちがちではない。
そんな「しなやかな心」を持ちたいと思うのです。