- 進む二極化・・・ってタイトルで別サイトの記事に2011年、かれこれ六年前に書いていた記事なんだけどね。
- 自分を知ることが大切なので今回は、こちらにに出します。
進む二極化・・・
今年の「節分」以降、かなり急速に、段階的に
『エネルギーレベル(意識レベル)の二極化』
が、進んでいるように思います。今、本当に自分を突きつけられて苦しいと感じている人もたくさんいることでしょう。
ここへきて『癒し』と言う言葉の意味と定義を見直さざるを得ないのではないか?と、感じているこの頃です。
僕は、レイキ他、エネルギーワーク等、N.L.P.や潜在意識のこともたくさん体験し、また同時に学びました。僕のことを「ヒーラー」だと思っている人もたくさんいると思いますが、正直に言うと僕は「アンチヒーラー」です。
今まで言われてきた一般的な意味での「癒し」とは、真っ向から対立する『癒し手』です。
多くの人は、自分の気持ちが楽になる、すっきりする、気持ちいい状態になることを、「一面的」に捉えて、“癒し”と呼んでいる。本当の意味の「癒し」が起これば、その瞬間からその人の「在り方」は、一変するはずなんです。
そして、この「真の意味での癒し」は、ヒーラーやセラピスト、チャネラー、肩書きは何でもいいのですが、「癒しを提供する側」の力量がどんなに素晴らしくても、「癒され手の側」が本気で変容を求めている。という前提が無ければ、成立し得ないモノなんです。
で、タイトルの「二極化」が、一体どのように今、起こっているのか?
『本物』と呼べる(あえて「本物」と言う言葉を使わせてもらいます。)セラピスト、ヒーラー、チャネラー、霊能者、その他人を導くアドバイスを言ってくれる人々、それが「友達」でも同じことで、
“職業的にそれを行っているのかどうか?”
は、関係が無いのです。
『癒され手の側の人々』が、自分の立ち位置や在り方の“上手く行かない何か”を正当化するために、自己弁護するために、自己欺瞞を補強するために、セラピーやカウンセリング、セッションを受けるのであれば、それは全く意味が無く、時間とエネルギーの無駄とも言えるのです。
(厳しいかもしれませんが。)
そして、なお悲惨なことに、その『自己欺瞞の助長』をしている、そしてそれが人のためだと信じて疑わない『癒し手』も未だ多数いるのです。
人の思いは『階層構造』になっているので、表面的なものだけを見て判断すると、落とし穴に嵌ります。
見るポイントとしては、密教等で言う「身・口・意」が一致しているのか?
身=行動、その人のやっていること
口=話す言葉、その人が口にする、文字にする言葉
意=その人の意識、あるいは思い
をしっかりと見て行くことが大事なのです。
ここで、「意」の部分は、他人の「意」と言うのはわかりません。専ら“自分自身の『意』を見つめる”と言うことになってくるのです。もちろん、他者の振る舞いを、「身・口」の部分だけでもしっかり見ていれば、やがてその人の「意」はわかるのですが。
「真意」というか、純粋な思いからその行動が為されているのか?
と言うことに尽きると思うのです。
純粋な思いはつまり「良心」善なる思いです。
その対極は「悪意」邪(よこしま)な思いです。
スピリチュアルに傾倒している人たちは、
『自分の中には「光」(良心・善)しかない。』
と思いこんでいる人たちがいます。自分の中の「悪意」を見つめようとしないのです。そして、この自分の隠された内なる悪意を見つけるには、自分自身で、自分の内側に「意識の光」を照らす必要があるのです。
しかし、自分の内側の悪意を見つけることは、必ず痛みが伴います。
誰しも、自分はいい人だと思いたいのです。
自分の中から見つめ、それを克服した時、本当の意味で人は感謝を覚えるのです。
悪意を持っているときの心は、それを本人が気付いているいないに関わらず、穏やかではありません。苦しいのです。
その悪意を持っている人が本質的に何をしようとしているのか?を見抜かなければなりません。
本質的にというのは、どう言うことでしょうか?
「気に入らないから、嫌がらせをしている」
「苦しいから、同情して欲しい」
「自分が(人より)優れていると認めて欲しい」
という表面的なモノではなく、本質的には本人が意識しているかどうかは別として『悪意(嫉妬や妬み、恨みなど否定的なネガティブな思い)』を周囲の人たちの心の中にも忍ばせようとしている。と言うことなんです。
隠れた悪意というのは、それをする人は「善意」だと思っている。そしてそれを疑わない。
これがとても厄介なのです。
自分に向けられた悪意に対して、自分も悪意で報いてしまうと、見えざる悪魔の勝利です。悪意を宿した心は苦しい。その苦しみを私の心に植え付けることに成功した。ということになります。
自分に向けられた悪意に対しては、冷静に判断し、非難すべき時には非難すべきです。これに蓋をしてしまう人たちも多いし、蓋をする、ということは、ゆっくりとその悪意が自分の心に浸透することを許した。ということなんです。
いわれのない嫌がらせに対して抗議をすることは悪意ではないし、見解の相違を認め、こちらの主張を提示することも悪意ではありません。でも「あいつのせいで、この野郎!」と憎むのであれば、それは悪意です。
『悪意をもって、“悪意を布教する”』
悪魔がいるとするなら、これが悪魔のやり方なのです。
象徴的で分かりにくい文章かもしれません。
『悪意』
言い換えるなら、心の陰に生える『毒草』のようなものです。
ちょっとした妬みや、嫉妬は誰でも抱きます。
それを敏感に自分の中で感じ取り、そして摘み取ることが出来るか?
これを問われていると思うのです。
毒草に、「見えないように」と上からシートをかぶせる。
こんなことをしていれば、ますます日が当らなくなり、毒草は茂っていきます。でも、誰も自分のこころの毒草は見たくないし、まさか生い茂っているとは思いたくもないのです。
二極化。
心の毒草をせっせと草むしりする人と、
毒草に気付かない人。
最悪の場合、毒草にシートをかぶせて栽培している人。
僕は、その『二極化』が進んでいると感じてやまないのです・・・・。