徒然に書き散らかすような文章になるかもしれませんが、ご容赦くださいね。
最近本当に強く思うのですが、『私たちが本当に求めているものはいったい何なのだろうか?』ということ。を思います。
いやね、僕は良いんですよ(汗。
自分の中で、体験を通して、人生を通して、納得していることがあるので、これについてはまったく、微塵も疑いはないんです。
ただ、これを「実感として」伝えることって、とても難しいな、と感じています。
というのは、何か?というと、
『私たちは、いついかなる時においても、私たち自身の人生を”体験”するのは、ひとりひとりの「心」においてである。』
ということ。
まあ、スピリチュアルなことを話すと、当然スピリチュアルなことに関心を持っている人とのかかわりが多くなるんですが、いろいろな人の相談を聞かせて頂く中で、
『スピリチュアル≠現実』
と、分けてしまわれている方が、とても多いな。と思うのです。
中には、現実的な日常の生活と、スピリチュアルが、『全く関係がない』と思っている方も。。。
時々、人様の日記を読んでいると、
『スピリチュアルはもう、やめました。』
と、たいてい、まあ、変な占い師や、勘違いヒーラーに、痛い目にあわされて(苦笑)、スピリチュアルを毛嫌いして、物質世界へ舞い戻る。というケースなんですが、そんなことを書いている人を見かけたりするんですね。
そんな日記を見たとき、僕は、『あ~、スピリチュアルと現実って分けられないものなのに。』とか、思うんです。
”私たちが「体験」することのすべては、心の中においてである。”
これを『受け容れる』ことができれば、そして、その意味が理解できれば、その人それぞれが体験する「人生」が、本当にがらっと変容する。
一枚の紙を、丸く切り抜いたとしたら、手元には、丸い紙が残る。
当然、僕は「丸く切り取られた紙」が必要だから、そのように切ったわけなんだけれど、でも、机の上におかれた画用紙には、「丸く切り抜かれた跡がある、四角い画用紙」があるわけで。
例えば、スポーツの世界には、もちろんスポーツだけではないけど、
『勝った人がいる』ということは、まぎれもなく「負けた人がいる」ということ。
そんな風に考えると、いろんなことが見えてくる。
「給料が少ない。」とボヤきたい気持ちもわかる。でも、そんな見方をすると、『稼ぐ力は、稼がせてあげる力』としてみることもできる。
だとしたら、「給料が少ない」と、会社や雇い主や、世の中の景気やそんなもののせいにして、考えるのではなくて、
『自分は、望むだけのお金を手にするに値する、貢献を、自分の会社や雇い主や、世の中に対して、しているだろうか?』
という、”自分への問い”になるはずなんだよね。
そうなってくると、自分が「どのような思いを心に抱き、物事(あるいは人間関係)に取り組んでいるか?」という、自分の問題になる。
でも、これが「キツイ」ところなんだろうね。
だって、そうなると、『誰のせいにもできない』から。
うん、わかるんだよ。誰かのせいにしたい。って気持ち。
わかるけど、それはそれとして、置いておいて、”自分への問い”を求める方が、答えを求めるより早いんだよね。
だって、「問い」を立てる、その立て方によって”答え”は変わるから。
科学者が実験をするとき、「仮説」を立てる。
この「前提仮説」がなければ、実験の結果が求めるものであるか、そうではないのか?
あるいは、「仮説」に間違いがあるのか?すら、わからない。
僕は、自分自身が、僕に投げかける「言葉の処方箋」のなかに、こんな言葉を持っている。
『答え合わせは、あとでする。』
私たちは、心を通して、人生を観察し、体験し、分析し、意味づけし、そして、表現している。