みなさんは、“他力本願”という言葉、どのように受け止めておられますか?
「それって、他力本願じゃない?」
って、どこか“自分で何とかしようとしないで、何かの力をあてにしているような”わりとネガティブに使われている言葉なんじゃないかな?と感じているのですが、実際は違うんだ、ということを父の死を通して確信したところがあるのです。
本来、仏教用語なのですが、生前父が話していたことをもう一度振り返ってみたら、父が話していたことは、レイキの創始者、臼井甕男氏が言われた『安心立命』に通じるものがありました。そして、コースの“聖霊”にも・・・。
臼井甕男氏の「安心立命(あんじんりゅうめい)」は
『人生の究極の目的は、安心立命を得ることにある。』
(これを臼井氏の第一の悟りと言うそうです。)
『安心立命(あんじんりゅうめい)』とは、天命を知って心を安んじ、物事にこだわらないこと。
と辞書にあり、天命とは「人の力ではどうにもならない運命」と記されています。
すなわち、『人として精一杯努力することは必要であるが、その後の人の力ではどうにもならないことについては天に任せて、一切思い煩うことのない安らかな心境を獲得する。』ということだそうです。
自分ができることについては、精一杯努力する。そして、自分の力が及ばないところは、その流れのようなものを全面的に信頼する。その “信頼”があるからこそ、何か不思議な穏やかさや安らぎのようなものを感じることができるのでしょう。
思えば父は、いつもユーモアにあふれた人でした。(まあ、聞く人によってはシニカルに聞こえたと思いますが(笑))
はたから見ていると、「ちょっとそれはマズイことになってきたんじゃない?」と思うような時でも、どこか余裕がある人でした。
「自分は“他力”を信じている」
というようなことを時折口にしていました。
その“他力を信じる”という境地は、自分ができることを精一杯やりました。と、胸を張って言えるような段階に至って、初めて思えるのではないかな?と、感じています。
そう言う意味では、父を思うと自分は「まだまだ“他力”の及ぶところまで力をつくせていないのではないか?」という問いが心の中に沸き起こってくるのです。
そう感じる自分の心に、問いかけていくと、『今の自分に、今できるけれど、まだやっていないこと』というものが、浮かんできます。
改めて、自分に与えられる機会や状況や出会いと言った、「自分の力ではどうしようもないこと」というものを、“他力”という視点から見つめなおしてみたいと思います。
「できないこと」があるから、『できること』が見えてくるのかもしれません。