湊河湯のライブについてなんとか思い出す | 笑うには近すぎる/怒るには遠い

笑うには近すぎる/怒るには遠い

Matsuyama Nobuyukiの果てのある日々

 

 

 

 

 

 朝起きてハングリーじゃないほうのフリークス、ズゴック、ドム、コアラが跋扈するコニーアイランドこと京都を脱出して神戸に着くと、アッパー港町な賑わいを見せる夕方とはまた違った表情を見せる蠱惑的な商店街を抜け、会場の場所を確認、近くのうどん屋へとシケ込む。

 

 私はグルメレポーターではないので、大変ウマかったとしか書けないのであるが、しかし脇に目をやると神戸新聞が置いてあったりで、ええ具合にチューンアップされたシャコタン老女が集会をしていたりして(哀悼・真帆志ぶき)、ああ、いま私は神戸にいるのだ、という気分がしてくる。そのくらい本番前というのはボケている、ボケきっているのであった。

 

 会場に着くとセッティングが始まっていて、そんな中、ふわっと挨拶をしてくださる。人の顔をちゃんと覚えてないので少し恥ずかしい思いをしたりもするが、関係者各位、まあ、こういう奴やと軽く流してくだすった。

 

 夜ヒットを模したマイクリレーを経て、1番手はカニコーセン。

 

 以前にも書いたけれど、カニ氏はかつて関西では当たり前だった、中学生日記とお笑い漫画道場とつげ義春というような並列で取り扱うと、とうの昔に発狂してもおかしくないモトコー的多面性を持っている。そこをサラッと撫でて出してくる侠気があった。その分裂した仮面を今回はだれが現世につなぎとめていたのだろうか?あろうことかアニメ声の皇室である。あっと驚く間もなく木の葉を残して跡形もなく消え去る狸ぶりであった。

 

 2番手は俺(松山ベイブリッジ歌謡道場)。

 

 わたくしが今回意識していたのはひたすら中庸ということである。エッジを出さないエッジといいますか。昼の陽光に照らされながら舞っているといろいろなことを思い出しそうになるが、一生懸命忘れようとしていた。兵庫でザッパをかけるとテイストがかなり変わるのが面白いです。サーフミュージック的なね。

 

 3番手はこぶね。

 

 ハンドパンとかすれた音のエレキ増幅したドブロのデュオ。この組み合わせを思いついたのもすごいが、なんていうのかなあ、演奏しているときに立ってなんとなく前を見ている感じがなかなかいいんです。ほら、あのジャンルによくある、うつむいてないというか。自然に二部構成になっているのもなんともゆったりとしていた流れを感じさせていて良かった。こういうのって、デザイン力やね。

 

 4番手はほりゆうじ氏。

 

 青春ノイローゼ的楽曲を中年男性がまっすぐに歌うソロ。こんなケレンのない歌、演奏をあざとくなく響かせるなんて、芸達者としかいいようがない。人徳、声の力やね。会場の誰もがこの曲を聴いたことないのにああコレ、百年前からずっと聞いていた!と観念を通さずに感じたことであろう。余談だが、橋本治を読み返したくなった。

 

 フィナーレは「また逢う日まで」。なかにし礼は森田童子と同じくらいサイコーだ。俺はちょっとだけわけのわからないことを絶叫し、また流刑地京都へと戻るのであった。