長女の小学校の学習参観の話です。(今から20年くらい前の話です)

*長女の小学校はお受験で有名な学校で、実験的な授業が熱心に試されていました。

 

自宅から持ってきたジャガイモをよく観察するように指示ました。

子供たちは面白そうにジャガイモを手の中で転がしながら観察します。

 

暫くして、先生は質問しました。

「ジャガイモについて知っていること、今、観察して分かったこと、何でもいいから教えてください。」

 

ゴロゴロしている。

土がついている。

凹んでいる所がある。

ジャガイモは好きだ。

カレーに入ってる。

 

子供たちはどんどん答えていきます。

 

先生は一つ一つの答えに感心したり、その通りだ!と頷いたり、そうかなと不思議がったり、

ある子の答えが誰かの答を導きはじめ、教室はあちこちで子供たちが天井に向かって手を突き出し

先生、ここよ。自分を当てて、ああ、答えたいと言っているようでした。

 

先生は一旦、子供たちを落ち着かせ

「では、次の質問です。ジャガイモは生きていますか。死んでいますか。

生きていると思う人?」

 

「死んでいると思う人?」

 

質問の意図を図りかねているのか、

意見を決めかねているのか、どちらにも手を上げない子供も結構な数、いたように思います。

 

先生「では、生きている、死んでいると思った理由を教えてください。」

 

動かないから死んでいる。

息をしていないから死んでいる。

土から出た時に死んでしまった。

根が無いから死んでいる。

 

「死んでいる」が優勢です。

 

芽が出てくるから生きている。

人間が食べて、人間の身体になって生きている。

 

「生きている」も意見を繰り出しました。

 

子供たちは「死んでいる」とはどういうことか「生きている」とはどういうことか、ジャガイモを通して考えています。

誰も他人の意見を邪魔せず、抗わず、揶揄せず、その意見を頭に入れて、理解しようと集中しています。

 

ある女の子が「どれも形が違っているから、生きている。」と言いました。

 

先生はとても感銘を受けているようです。

参観している父兄からも感嘆の声が上がりました。

(もちろん、私もとても感動しました。)

 

あれは理科の授業だったから、理科的に求められている答ではなかったと思いますが、

 

「みな、違っているから生きている。」という観察力と洞察力は

 

生きているということは個性を持つことなのだ。

生き方はみな、違っていていいのだ。

同じように生きられるわけがない。

違いを大切にしよう。

 

に繋がっていくように感じました。

 

私が生徒だったわけではありませんが、今まで受けてきた楽興教育の中で最高の授業でした。

 

こうやってblogに書いていると「視座」と言う言葉が浮かんできました。

 

「視座」とは物事を見る姿勢や立場のことです。

 

事実を眺めるときにどのような立場・役割で眺めるか。
不変の事実も眺める人によって違いますね。

ミッシングピースのロゴは図形の基本の形である四角・三角・丸の全ての要素を取り入れ

(解像度が低いので真ん中の丸い部分がつぶれて、ひっついているように見えますが💦)

かつ、どのピースも同じではありません。

 

ジャガイモの話はミッシングピースを運営するうえでの私たちの視座に忘れてはならないことを示唆しています。