伊達を継ぐもの展②
今日も引続き仙台✨
さて継ぐもの展での衝撃は伊達騒動。
俗に言う寛文事件。
仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興三昧で、
政宗の10男一関藩主伊達宗勝が諌言し、
親族大名岡山藩主池田、柳川藩主立花、
宮津藩主京極と相談の上幕府より、綱宗は21歳で強制隠居。
4代藩主に、わずか2歳の伊達綱村が就任。
綱宗と後西天皇の母親同士が姉妹であったために、
仙台藩と朝廷が結びつくことを恐れた幕府が、
綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説もあります。
そして寛文事件。
大叔父にあたる宗勝が家老に。
実権を掌握して権勢を振る🥺
奉行の原田宗輔もこれに加担して、里見重勝の跡式を認可せずに故意に断絶に追い込んだり、
席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件も起こる。
また涌谷伊達家と登米伊達家の所領紛争も起こり、
伊達宗勝の専横を幕府に上訴することになります。
1度目の審議が行われ、藩主の伊達綱村への処分がないことが確定。
原田と柴田の証言の食い違いにより、柴田派の古内も呼ばれることに。
酒井を初め老中全員と、幕府大目付も列座する中で2度目の審問。
その審問中の控え室にて原田は、
その場で宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入した。
驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷。
聞役の蜂屋可広も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、
原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡した。
大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家、裁判の争点となった宗勝派および藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰。
年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となります。
俗に言う伊達の黒箱。
事件でのやりとりの、手紙の数々は700通にも及びます。
寛文事件が落着した後、藩主としての権力を強めようとした綱村は、
側近を藩の重職に据えるように。
これに不快感を示した伊達一門と旧臣は、綱村に諌言書を提出したが聞き入れず、
その後も再三にわたり、一門・家臣の綱村に対する諌言書の提出が続き、
この内紛が5代将軍徳川綱吉の耳に達し、仙台藩の改易が危惧されるようになった。
老中になっていた稲葉正往は、綱村に隠居を勧告。
綱村には実子がなかったため弟の伊達吉村が5代藩主となります。
伊達騒動は綱村の隠居でようやく終止符が打たれることになります。🎇🎆
仙台、宇和島、伊達を継ぐ者
今日は朝に仙台、宇和島、伊達の系譜展を視察いたしました。✨
気になったのは、伊達家存続の危機だった和霊騒動ですね。🏝️
1620年7月28日に発生した、宇和島藩お家騒動のこと。
山家清兵衛事件ともいいます。🥴
宇和島藩は、伊達政宗の長男秀宗が秀吉に仕えていたため、
秀吉から伊予に10万石を与えられて成立した藩。
政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付けて、重臣として藩を運営させました。
その中で山家が筆頭家老として実質的に藩政を振るいます。
宇和島は領主が頻繁に入れ替わったため疲弊しており、藩は早くから財政難に見舞われます。
秀宗は父政宗から6万両を借りて、
その返済は1635年まで続き、
初期の宇和島藩にとって大きな負担となります
返済にがんばっていたのは、山家清兵衛。
さらに大坂城石垣修復を請け負ったことから、藩の運営を巡り山家清兵衛と桜田玄蕃が対立を起こす。
山家は政宗から信任が厚かったことから、秀宗は清兵衛を疎んじて、
桜田玄蕃を重用。
反清兵衛派は暗殺を企てて、清兵衛を茶坊主を使って毒殺しようとしたが、これは未遂に終わっています。
ある雨天の深夜。
山家邸が襲撃され、清兵衛と次男と三男、娘婿塩谷内匠とその子2人が斬殺💦
当時9歳だった清兵衛の四男も井戸に投げ込まれて殺害。
秀宗はこの事件を江戸幕府はおろか、政宗にも報告していない。🥺
これに怒った政宗は、五十七騎の一人で重臣の桑折左衛門を通じ秀宗を詰問して謹慎を命じ、
幕府に宇和島藩の改易を嘆願したが、これは宇和島藩取り潰しの回避を目論む政宗の芝居だったともいわれています。🤔
秀宗は秀吉贔屓、山家はもともと最上家出身。
最上家ごときに、こき使われたくなかったのでしょう。
「俺様が秀吉公からいただいた領地のだ!」
この事件は徳川に謀反ありと疑われてもしかたのない事件。
徳川に刃向かう疑いを取り消すため、
政宗は機転を利かして
あえて改易すべきだ!と幕府に嘆願まで出して演技している。🤔
戦国の世を渡らねばならない、
したたかさがうかがえます。💋
さて慌てた秀宗は、幕府や政宗に釈明の使者を出したり、
妻の実家である彦根藩に仲介を依頼。
彦根藩や仙台藩の仲介工作の結果、当時老中だった土井利勝は政宗の嘆願を上奏せず、宇和島藩は改易を免れた。
事件後に祟りが起きます。
秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛本堂の梁が落下し、
桜田玄蕃が圧死。
その後も山家清兵衛の政敵たちが、
海難事故や落雷によって相次いで死亡した。
宇和島藩家老が祠を建てるが、その甲斐なく、
秀宗は病床に伏し、秀宗の六男徳松、長男左近太夫が早世、
次男宗時が病没。
災難は家中にとどまらず、飢饉や台風、大地震が相次いだ。
このことが「清兵衛が怨霊となり怨みを晴らしているのだ」と噂になったため、
秀宗は1653年に、
神社を建立。山頼和霊神社としました。🤔
1731年には、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建して、清兵衛の霊を慰めたという。
いまも当時の井戸が残っているのだとか。
徳川幕府は当時、外様大名への改易取り潰しを断行していたので、
徳川の恐ろしさを知る政宗は、
身を粉にして宇和島藩をまもっていたのですね。
秀宗は、徳川の本当の恐ろしさを知らずに育ったに違いない。