阿曇氏②
古代の阿曇氏、つづき✨
実在が確かとみられる阿曇連氏の最初の人物は、日本書紀。
この人物は、推古条によれば、新羅征討にあたって、
新羅から賄賂を受け取り、はやく征討軍を派遣するように、
大臣の蘇我馬子に勧めたとされています。🤔
僧尼の統制のために法頭 に任じられたともあって、大臣馬子によって阿倍臣摩侶とともに推古天皇のもとに遣わされて、
「葛城県は蘇我氏の本居であるから、
それを封県として賜りたい」という馬子の要求を伝えています😌
いつの時代も政界は、変わらない構図なんですね😥
次に、天智朝にかけての人物として、阿曇連比羅夫があげられています💋
比羅夫は、百済に遣わされていましたが、舒明天皇の崩を受けて、
それを弔う百済使とともに帰国し、百済の弔使を筑紫に残して朝廷に参じ、
百済の乱れている状況を伝えたとされています。✨
その後、百済救援軍の前将軍の一人としてその名がみえ、
船師170艘を率いて百済に渡り、百済王子を守ります💌
次に、天智・天武朝の人物として、阿曇連稲敷があげられています✨
天智天皇の崩を受けて、その喪を筑紫にいた唐使に伝えたとあり、
阿曇連氏の人物が対朝鮮半島外交にかかわり、将軍として活躍しているという点が浮き彫りになりました🌄
阿曇氏が海人の統率者として、
大王に奉仕したという始祖伝承と、まさしく対応しています。😌
海人 は海産物の採取だけではなく、航海技術にもすぐれていたのですね。🤔
実在した阿曇連氏の人物は推古紀に初めて登場して、
蘇我馬子と親しい関係にあったので、
阿曇連氏は蘇我氏との結びつきによって有力化したことが考えられるでありましょう🤔
朝鮮半島の貿易の玄関口にもなっていた志賀島。
金印の扱いに近い人物であることは、たしかのようですね💕
さあ、今日も1日がんばっていきましょうね🌸🌸🌸🌸