昭和末期、
ハタチで撮影所に入った頃は
まだまだテレビ時代劇も量産され、
(すぐにバタバタと打ち切られたが)
配布される台本はその扱いも軽くて、
まったくその通りに撮るという
テレビ専門の監督も多かったが
パイロット版などで入る映画監督さんは
ほとんどを書き直してしまって、
毎日手書きの改訂版コピーが配られて
台本に貼り付けるから厚みが倍ほどになる〜
 
それはもちろん映画の現場も同じことで、
今思えば有名な原作、
そして有名な脚本家の作品だったが
それはもはや単なるたたき台に過ぎず、
現場では毎日、
号外、と呼ばれる改訂稿が配られた
 
さらには役者さんさえもが
セリフを変えてしまうこともあり、
初めて、
脚本家という業種の限りない軽さを目の当たりにした
 
どんなに大御所の俳優さんだろうと、
世界に認められるスタッフだろうと、
監督のOKが出なければ無でしかない
そんな中でも脚本家っていうのは
現場で顔を見ない分、
さらに重きを置かれない存在なのかな、
と、いわばゴーストのように思えていた
 
少なくとも日本において、
映画って監督のものなんだ〜
と、そんな考えしか持ち得ない時代だった
 
だからこそ、
監督をするなら脚本が書けることが条件、
映画学校で叩き込まれた考え方も
その通りだと実感していた
 
先日の、羅生門、でのトークショーで
かの大脚本家、橋本忍の著書、
 私と黒澤明 複眼の映像
という自伝が、すでに映画史の中では
ほぼフィクションであると認識されている
と聞いた
そこで早速図書館で借りて
今読み始めたところだが、
確かにこれは小説と言っていいほどの文体、
創作的な文脈であり、
文才ある人ならこう書きたかったろう、
と思うことしきりである〜
 
ただ、だからといって価値は変わらない、
彼の考え方がはっきり表れていて面白い
中でも原作に対する考え方を、
師匠である伊丹万作と語り合う件は
昨今マスコミを賑わせる話題とリンクして
かなり興味深く読んでしまった
 
まだプロの脚本家でない頃の橋本が
師匠から原作に対する心構えを聞かれて答える
原作を牛に例えて、
 
私はこれを毎日見に行く(中略)
それで急所が分かると、
柵を開けて中に入り、
鈍器のようなもので
一撃で殺してしまうんです
 
もし、殺し損ねると牛が暴れ出して
手がつけられなくなる。
一撃で殺さないといけないんです(中略)
原作の姿や形はどうでもいい、
欲しいのは生血だけなんです
 
これに対して伊丹は考えて答える、
 
この世には殺したりはせず、
一緒に心中しなければいけない原作もあるんだよ

 

 

この後、
橋本は芥川龍之介の藪の中を題材に
シナリオを書き、
黒澤明はこの作品を目に留める
そして尺長で羅生門を組み合わせて、
かの傑作、羅生門が生まれる
 
文学作品原作と、
イマドキの漫画やライトノベルとは
一緒に考えてはいけないのだろうか
 
それでもやっぱり、
脚本家の覚悟ってのはあるだろう、
同書で橋本は語っている
 
シナリオライターを目指したが脱落し、
小説家に方向転換して有名になった人や、
現役のシナリオライターから小説家に転じ
大成した人もかなり多い(中略)
ところが、
小説家からシナリオライターになった例は
一例もなく、これからもそれはあり得ない。
これはシナリオが特別に難しいもの
という意味ではない。
小説は読み物、
シナリオは設計書、
という全く異なる別々の生きものであること
(後略)
 
ってことで、こういう問題は
それこそ映画作りが始まって以来
ずっとあったのだと痛感した次第
きっとさらには、
現場で改変されてしまう悔しさも、
ずっとあったことだろう
 
本はまだ読み始めたばかりなので、
これから先にそれも出てくるかもしれない
 
撮影所の片隅で
ひよっこのままで役割を終えた自分が
こんな大御所の考察をするのもなんだが、
確かに現場で目にしたのは
脚本軽視以前の話であったと今でも思う
 
昨今こうして日々映画を乱読ならぬ
乱観しているとだな、
やっぱり映画の良し悪し第一は、
脚本にかかっていることがわかるんだよね
 
これこそが、
橋本のいう設計図、ってことなんだろう
いや、フィクションであれなんであれ
この本は面白いのでじっくり読もう、
 
原作者vs脚本家、とか、
脚本家vs現場、
なんてことじゃなく、
映画は総合芸術、
関わる誰もが
1本1本に命を燃やしているんだから
軽々しく他所から口を挟みたくないよね
 

 

 

 
 
人気ブログランキング
人気ブログランキング

映画ランキング