不思議な夢&天明と接点のある人々 | コメント受付中

コメント受付中

認証後掲載させて頂きます。
コメントを頂きましてもご返事が出来ない場合がありますのでご了承下さい。

昨日から今朝の明け方にまた変な夢を見た。
その夢とは深い森の奥に大きな石があり、オイラはなぜか?追われている

その追っ手から逃げるのに、その大きな石に入れるのではないだろうか?と「私の直感」で感じたので両手をその石に当てるとその石が振動しだして、吸い込まれた。

そしたら

ありえないことだが

その石の中に

なぜ?かわからないが

枯れ葉と木で出来た龍神がいる

しかし

全く反応がない

その龍神を見つめていると

その石の後ろの方で何者かが呪文なのか?お経なのか?分からない言葉で唱え出した

とたんに

その龍神がオイラを噛もうとした

ので

とっさに

その龍神の長い口なのか?鼻なのか?分からない部分をつかむと

その龍神がおとなしくなった

そして

オイラはその龍神に説教したら噛むのやめてオイラに擦り寄って来たのでアゴの部分をさすってやるとネコがゴロゴロ言うように目を細めて気持ちよさそうになついて来た

????

そこで目が覚めた

ホントに不思議な夢だった。



天明と接点のある人々
http://slicer93.real-sound.net/0-jz-space-3993.html より

●●●●●●●●●●以下転記はじめ●●●●●●●●●●

小田野(おだの)早秧(さなえ)
本名・春子
明治四十一年三月十三日~平成十三年十一月二十四日
至恩郷
昭和三十四年七月七日、東京中央公論社画廊で行われた岡本天明「第一回クレパス画展」で知り合った人物。

女子美の日本画科を三典女史より九年早く出て、その後教師をしていたが、そろそろ画家になろうとしていた矢先の出会いだった。

 小田野(おだの)早秧(さなえ)女史は言葉を光透波(こうとうは)として捉える命波研究家の側面があった。

 漢字の造りを分解してそこから意味を読み取っていくというやり方は、“字割(じわ)り”と称されていた。

その方法論から、人類の起源は諏訪湖から発生したという奇抜な説を含んでいる。

小田野女史神秘体験も豊富で、昭和二十八年六月二十二日自分の胸に「天鏡(あめかがみ)」と文字が浮かび上がったのをきっかけに、導かれるままに四国の剣山の洞窟に入り込んで神業をしていた

小田野(おだの)早秧(さなえ)女史は早速、昭和三十四年八月一日から五日まで菰野(こもの)の「至恩郷」を訪ねて来て暫く滞在していった。

天明達は東京での生活には愛想をつかした積りだったが、昭和三十四年九月六日から一時期、田園調布の小田野家の二階を借りて暫く画を描いて暮らす事になった。

東京にいよいよ出発の前日、庭で天明夫婦の飼い犬の吠える声が止まないので、不思議に思って天明が庭に様子を見に行くと、どこから現れたのか庭に一匹の小さな亀がいて、その亀に犬が吠えていて、犬が吠える度に亀が首を引っ込めて、歩いていたのだった。

天明は《竜宮からのお使いが着いた》と喜んで、その亀の事を話していた。

天明夫婦は小田野女史の事を龍宮の乙姫の“オトちゃん”“オトちゃん”と呼んだ。

東京での生活は、三典女史が個展の準備で留守がちにしていたが、天明と小田野女史は二人で多摩(たま)川を見晴るかす丘の上で、朝から日暮れまで話し合っていたという。

菰野(こもの)と東京を行ったり来たりする生活は、天明が亡くなるまで続く事になる。

小田野(おだの)早秧(さなえ)女史、岡本三典女史より聞き取り 平成十三年

『天鏡 アメカガミ――コトバという宇宙』 菊地静流 永井迪子 私家版 平成十四年

先頭に戻る

■またこの人物も気になります。

紅卍字会の会長だったこともあるようで。

大嶋(おおしま)豊(ゆたか)

大本~千葉

明治三十三年二月二十日香川県高松生まれ、大正九年夏、帝国大学在学中に確信会を通じて大本に入信する。

笹目恒雄(秀和)の紹介から、大正十四年「載天義塾」(後の「善隣協会」)に所属しながら日蒙関係の活動をしていた。

満州事変の折には陸軍の林(はやし)銑十郎(せんじゅうろう)の命で動いて、大陸浪人のような事もしていた。

昭和八年、『竹内文献』を廻る「神宝(しんぽう)奉賛会(ほうさんかい)」の理事を務めており、矢野祐太郎とも面識があった。

大本では「人類愛善新聞社」の奉仕もしていたので、天明とは、この頃から面識があったと思われる。

戦後、天明との交流から麻賀多神社にも来ていた。

昭和三十二年から三十五年まで東洋大学総長。

同じ頃、世界紅卍字会会長も務めていたが、同じ中国の道院起源の「救世神教」に傾倒した為に、扶乱(フーチ)に拠って小田秀人と共に除名処分になった。

昭和七年頃王仁三郎引退を画策して事ハンバにて発覚後大本を去り、昭和三十七年当時の大本総長出口栄二氏の追放三代教主に吹き込んだ張本人

その背景には、東西冷戦の時代に道院の扶乱(フーチ)で繰り返し現れる【赤化(せっか)の劫(ごう)】という世界共産化に対しての、激しい警告の預言があった。

大嶋豊は左派の出口栄二氏が大本の総長である事に対して、激しい敵対心を抱いていたようである。

昭和五十三年十二月十六日死去。

(注、刊行された『林銑十郎日記』には、満州に於ける大嶋豊の行動が記されている。)

山口昌素(しょうそ)氏より聞き取り 平成十三年『林銑十郎満州事件日誌』 みすず書房 平成八年
『日本紅卍字月刊』 昭和三十六年
『東洋大学百年史 部局史編』 東洋大学編 平成五年
『神仙の寵児』 笹目恒雄 国書刊行会 平成三年

■此の方は、ラビ・M・トケイヤーと人物を呼び寄せて自宅にユダヤの祭壇までつくっているようですが、ラビ・M・トケイヤーという人物

サイトでの紹介した、ユダヤ五千年の智恵の著者でもあるみたいです。

原田(はらだ)観峰(かんぽう)
明治四十四年~平成七年
松庵(西荻窪)~至恩郷
九州出身で後に東京に出ていたが、昭和十二年から高田集蔵から 漢文を学んでいた縁で、昭和十八年八月軍隊の召集を受けた時も、 高田集蔵から《原田さん、国民として義務であり時のめぐりであるから 避けられない宿命です。

あなたは少し短気で一徹者じゃから早まり易い。

死なんでいいのに気が早いから死に急ぐところがある。》

その後、低い声で、《原田さん、この戦争は後二年位で終わる。

そして日本は負け戦となります。

これは日本国の宿命であり、神の計らいであるから、どうにもならんことじゃ。

敗戦となった時は原田さん決して短気を起してはなりません。》

昭和二十一年三月、無事戦地から帰還して東京で高田集蔵と会い成田の小川家に濁酒を飲みに行こうと誘ったのが縁で、昭和二十一年五月に成田に始めて来た。

その折、高田集蔵の紹介で天明に逢いに来たのが縁の始めである。

昭和二十八年、天明夫婦が岐阜に引っ越していった折には、天明の行動に対して高田集蔵に苦言を呈している。

京都東山に在住で「日本習字教育財団」を主宰して六十万人の門弟を持つ。

習字の『かな教本』に、日月神示の文言を使用していた。

日ユ同祖論を信奉しており、京都東山の自宅にラビ・トケイヤーを呼んでユダヤ教の祭壇を設えたり、晩年まで「至恩郷」に金銭的援助をしていた人物の一人。

『高田集蔵往復書翰集 第一輯~十一輯』 高田集蔵 同刊行会 昭和五十一年~五十七年

『日本・ユダヤ封印の古代史』 ラビ・トケイヤー 徳間書店 平成十一年

『真文明』 昭和五十年代

■此の方も三十四年付近の記録があります。

スブドというものも基本的には、神サタンの範疇に入っているものだと思います。

日野(ひの)誠(まこと)
明治三十年四月七日~昭和六十二年一月五日 松庵(西荻窪)

岐阜の中学校の校長をしていたというが、戦時中徴用募集で岐阜の川崎重工の練成課に配属され、古事記の講師として高田集蔵を招聘した人物。

高田集蔵から日月神示の存在を教えられ、戦後は同士と共に成田で共同生活をしていた。

昭和二十二年春、共同体が解散の後は暫く岐阜に帰って岐阜市内の金神社の宮司をしていた。

昭和三十四年、インドネシアから紹介された「スブド」と出合って会員になっている。

結局小生六十年の生涯に於いて、求め求めて止まなかったものは、はじめてぶち当たったという感銘は、強く深いものを覚えます。

いわゆる神社神道に関係してつくづく思うことは、神道は本質的に立派なものを持ちながら、このやり方や考え方ではとうてい人を救う訳には参らないと思い、何とかして、この神道を真の魂のよりどころとして築き直したいという、分を超えた野望を抱くようになりました。

・・・思いをまとめようとしているところなのであります。

あに感慨なかるべけんやであります。

昭和三十四年十二月二日

昭和三十四年二月九日に於いてスブドのオープンを受けて、「スブド同胞会」の会員として再び上京して、東京の十菱麟氏の主宰していた「英端カンパニー」の社員として活動していた。

その後、同社を退社後は発明家の大森某の元に身を寄せていたらしいが、その後、昭和五十年代は「スブド」の東京小平支部でヘルパーをしていた。

須藤一郎氏、十菱麟氏より聞き取り 平成十四年
『バパとともに』 十菱麟 平成三年

先頭に戻る

■三十四年頃に離婚で揉めた人物もいるようですね。

些細なことではありますが、この方はイスラエルにも行っているようなので。

富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)
本名・内山(うちやま)昌宣(まさのぶ)、雅順 至恩郷

大正十二年三月十一日新潟生まれ、元軍人で少年兵としてガダルカナル島に派遣されるが、一人陸軍幼年学校に入学の為に帰還するが、戦友全員がガダルカナル戦において玉砕する。

戦後、全国で日本精神についての街頭遊説をしたりして著作を書いて活動していた。

昭和二十七年秋、京都の「みろく教団」の管長、青根某と佐々木某の導きで、北伊勢「錦之宮」に導かれて、昭和二十七年十一月二十六日(旧十月十日)の「錦之宮」の天明山(てんめいざん)神業に参加している。

生駒天明山のミロク岩を、神示で新たに桃太郎岩と名付けられ、内山(うちやま)昌宣(まさのぶ)が桃太郎役を務めて、ミロク岩(桃太郎岩)から霊的に桃太郎が誕生するという神劇が執り行われた。

内山(うちやま)昌宣(まさのぶ)は「錦之宮」では、以前から《辻天水に息子が産まれる》という神示に示されていた“辻天水の息子”という霊的な位置付けがされて、辻天水の薫陶を受けていたが、裏神業という場に自らを置くよりも、自らが主役になって表舞台に踊り出たいという意識が生まれたのか、結局「錦之宮」から出奔する事となる。

錦之宮」から出奔する時は、神名“辻泰子”こと、小澤こしげ(・・・)という元新橋の芸者と連れ立って出奔して行った。

その後、小澤こしげ(・・・)は内山の巫女を務めていたというが、何時まで存命だったかハッキリしない。

昭和四十八年にはもう亡くなっていたらしい。

昭和二十九年には、東京で「よあけ」という名の団体を主宰していたようだ。

当時、東京で開催されていた元軍人の主催していた「一元の集い」に寺部(てらべ)安定(あんてい)と共に出席している。

トビラキ教団」は、戦前は「金剛閣」という呼び名だったが、戦後改称されたのである。

安定とか金剛とか、もっぱら仏教的な響きであるが、“何でもありの宗教”というように何でも接収したという。

寺部の妻である“”の唱えた御神歌は天理教の節だったという。

“トビラキ”という言葉も、明治二十年の天理教の中山ミキが臨終の時に、本席飯降伊蔵の“おさしづ”を仰ぐと“さあさあ扉をひらいて地を均そうか

扉を閉まりて地を均そうか”という問いかけがあって、居合わせた一同が“扉を開いてろくじを均してくだされたい”と答えて、中山家の家屋敷の扉を開け放って、最後のかぐらづとめ(・・・・・・)をした故事に由来しているのだろう。

昭和二十六年に、飛騨高山出身の綾に【位山を開け】という神示が降りて、それから位山開きの為に三年に渡って都合十六回に及び、集団で伊勢の天岩戸まで禊に通ったという。

寺部安定は、金井白雲の弟子だった。

 “三千世界を開くのだ。

五智(ごち)の磐戸を開くのだと”と、昭和二十九年三十年、寺部安定の京都の「トビラキ教団」が主宰した位山トビラキ神事にも、名は出てこないが参加していると思う。

トビラキ教団」の顧問は池澤原次郎であり、松平俊子・金川文楽が地元で記念講演をしている。

トビラキ神事に参加していたが、この神業では位山は開かないと見切った真言女行者の金井(かない)白雲(はくうん)が、弟子の彫刻家の都筑(つづく)峰仙(ほうせん)と、岡山の釜鳴り行者と再び位山に入って位山を開いたのである。

(今では地元の都筑(つづく)峰仙(ほうせん)が位山を開いたと自己宣伝していたが、平成十二年五月、都筑(つづく)峰仙(ほうせん)の子息に資料を見せて《金井(かない)白雲(はくうん)の弟子でしたよね》と真実を迫ると、渋々総てが借り物であったと認めた) 内山(うちやま)昌宣(まさのぶ)が飛騨位山の神業から富士に入ったのは、位山を開いた金井(かない)白雲(はくうん)が述べていた【位山の水と富士の火の結び】として、霊的な結びを現実化する為であったと考えられる。

昭和三十一年五月、富士山麓で井口都伎と出会う

彼女は当時未亡人だったが、夫は井口寅次という天行居二代宗主だった人物で、昭和九年に天行居の分裂騒動から友清観真によって宗主の地位を剥奪された人物である。

ここに天行居の霊統も摂取するに到ったのである。

天行居分裂騒動に関しては、現在背景が今ひとつはっきりしないが、昭和二年、神殿を富士周辺に建てる予定が、一転して友清観真の故郷である田布施の岩城山に神殿が建てられた事に一端が起因するようである。

表の富士神業ともいうべき富岳神業を提唱した藤井啓道が又、井口寅次の影響を強く受けているからである。

この頃から、内山(うちやま)昌宣(まさのぶ)から富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)と改めて名乗り始めたようである。

富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)は昭和三十一年六月十日の「至恩郷」祭典に参加する予定だったが、自らの元に神示があった為に取り止めて、大国常立大神の神霊は北伊勢ではなく富士山に降臨するという神示で、七月七日に富士山頂に上り富士(ふじ)真柱(まばしら)降臨の神事を、池澤原次郎、松平俊子等と共に修めていた

裏行として八月十四日(旧七月七日)に、富士五合目小室(こむろ)浅間(せんげん)神社と北口本宮浅間神社で神業を修めている。

その後、例年七月七日と旧七月七日の富士神業を修めていた。

昭和三十一年は、天理教において中山ミキが語っていた明治十八年から七十年すると「国の本尊」が始まる(出現する)年と考えられて、天理教の“真柱(しんばしら)”ならぬ“富士の真柱(まばしら)”(天(あめ)之(の)瓊矛(ぬほこ))が富士に降臨するという自覚が内山(うちやま)昌宣(まさのぶ)本人にあったのである。

始めは年上の女性と結婚していていたが、内山という姓は相手の姓だった。

 妻は後に試験に受かって、当時は珍しい女医となって自立出来たが、その辺りから夫婦仲が上手く行かなくなって離婚という事になった。

離婚調停裁判で揉めて、その時の条件で昭和三十四年、戸籍名を内山(うちやま)昌宣(まさのぶ)から富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)に変更している。

昭和三十六年、渋谷南平台(なんぺいだい)の拠点として、政界から妖怪として恐れられていた岸信介(のぶすけ)の影のブレーンとして活躍したともいう。

その頃、南平台に救世主が現れたという噂を聞いて、金井南龍(なんりゅう)が友人の行者と二人で偵察のつもりで富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)と会見したら、霊視能力がある二人共、救世主の印たる十六弁の菊座というものが見えて二人ともビックリしたという逸話がある。

又、金井南龍(なんりゅう)が七面山で神業をした折に、帰り道の遥か遠くの上空に雲気が棚引いていて、何者が居るのかと思っていたら、そこに姿を見せたのは富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)だった。

まるで漢高祖の劉邦(りゅうほう)の上空に天子の気が満ちていたという逸話のようである。

富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)は天明死後、至恩郷にやって来て三典女史に対して“岡本天明跡目は、自分が継いだ”と言い放って去っていった。

誰もが富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)の特徴として話すのは、目つきの鋭い人物だったという。

富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)が「錦之宮」から出奔する時に、辻天水が大本事件後に瓦礫の山から拾って保管していた、天恩郷の月宮殿の御神体を持ち出しているが、一時集めた宝物を他の人間に盗まれないようにと、田園調布の小田野(おだの)早秧(さなえ)宅二階に暫くの間は隠していたという。

昭和四十一年に尼崎の神業者、石蔵常代の紹介で笠岡の「大元教」に月宮殿の御神体を売り払って、その金を元に富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)はイスラエルに行ったのだという。

昭和四十年琵琶湖湖畔の長命寺「おのころ島」を舞台に活動拠点を移したが、ここは大石凝真素美の弟子だった朝倉尚?(しょうけい)が昭和六年に住み着いたところで、山中に石垣を組んで曲水の宴をするような庭園が設えていた場所だった。

ここに三本の真柱を建てて、この中でウマを飼っていたのである。

昭和四十年九月、京都の飯田虎彦の主宰した会合で、山本久美子(白鳥)女史と知り合い内縁関係を結ぶ。

海外渡航自由化後、昭和四十二年イスラエルに単身白鳥女史が飛び、現地要人達と会見する事が出来た。

 続いて富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)がイスラエルに渡航するが、現地の治安が不安の為に入管でとまどった後、ヤデン首相等と会見した詳細は「読売新聞」「週間ポスト」に掲載された。

山本久美子(白鳥)女史の母親も山本ヒサといって、「松緑(しょうりょく)神道(しんとう)大和山(やまとやま)」の宮古(みやこ)支部長を務めた霊能者で、岩手県内に大和山の信徒を増やしたのは、山本ヒサの御蔭だといわれていた存在だったが、親子で富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)に入れ揚げて、富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)を大和山の教祖に引き合わせた。

 その時、教祖の大和(やまと)松風(まつかぜ)は富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)の事を“イロの顔”だと称していたという。

その後、大和山宮古支部の土地建物の名義が、富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)に変更されていた事が発覚して教団では大騒ぎなった。

富士南麓天子岳(てんしだけ)を望む猪(い)の頭(かしら)という地に、「太陽神殿」という拠点に移りそこを拠点に活動していた。

昭和四十八年二月十一日、富士宮市北山の地に富士の真柱を建てる神業をする。

平成二年三月、脳溢血で倒れるまで、世界中を含めて精力的に活動していた。

平成三年十二月二十一日に亡くなっている。

富士宮本人は、最後まで「錦之宮」出身であるという事実を伏せていたので、家人はその事実を知らなかった。

元々は、社会学系に関心があった人物で、富士に行った折に蔵書を少し見せてもらったが、社会学系の本と神道の本が半々といった割合だった。

神道系大本と川面(かわつら)凡児(ぼんじ)の物が多かった。

思想的には水谷清と小笠原孝次(こうじ)の影響が顕著で、小笠原孝次の本は“座右の書”と夫人が表現したほど傾倒していたようで、小笠原孝次の子息とも交流があったという。

富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ)は、人物評価が真二つに分かれる典型的な人物であり、“金と女に汚かった”というのが、もっぱらの評判である。

子供を十人以上設けた割には、誰も後を継ぐ人間がいなかったし、一人も弟子が育たなかった。

その意味では種無しだった。

オノコロ島を出る時は、借地代未払いのまま夜逃げ同然で姿を消し、今でも現地ではペテン師だといわれている。

救世教の顧問弁護士だった奥一夫を始め、沢山の人間が金をつぎ込んでいた。

お金をつぎ込んで、あげく資金の使い込みまでして、結果ピストル自殺した人間もいた。

救世主の御霊というのは、世に現れても時代に封印されるのが宿命で、大概は色情因縁によって汚されるのである。

剣道と乗馬を愛する愛国少年が、類稀なる神縁を受けながら色情因縁に呑まれていったのは、まことに残念なことであり、我々にとっての反面教師である。

富士宮八尋女史より聞き取り 平成九年二月十一日
大和山教団関係者より聞き取り 平成十三年五月
『霊峰富士』 富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ) 壷中天書房 昭和三十四年 再販自家版 昭和五十五年

『人類の生きる道』 富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ) 昭和四十年

『頌楽(じゅらく)』(龍宮神示 天の巻の刊行本) 富士宮(ふじのみや)瓊光(たまみつ) 昭和四十六年

『一元』 昭和二十年代

『地球のオアシス琵琶湖論』 宮部誠一郎 村田親弘 琵琶湖研究会 昭和五十三年

『最後の審判』 村田親弘 私家版 昭和五十五年

『富士』 村田親弘 昭和四十年代


●●●●●●●●●●以上転記おわり●●●●●●●●●●


この↑の中に出て来る十菱麟氏のことを、船井幸雄が著書で取り上げていたので昔に興味を持って十菱氏に切手を送付して彼の通信文を定期的に送付頂いたことがある



途中で少し頭がおかしくなったようで、何を言っているのか?全く意味不明になり通信は途絶えた。

http://spysee.jp/%E5%8D%81%E8%8F%B1%E9%BA%9F/1184689/ 

今でも生きているのだろうか?

十菱氏は純粋な思想家であり頭が良すぎたのか?凡人にはまさにキチガイとしか映らなかった部分が非常に多かった人物で、変人であり誠実な方であったが・・・


船井幸雄氏その他のかたがたのご紹介で、このプリントを求める人が多くなっています。
http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateinput.do?id=11251909557# 


船井:そうそう十菱麟さんの訳だったね。十菱麟さんとはいろいろあったね。 
http://books.google.co.jp/books?id=m2iIUyaSoFgC&pg=PA73&lpg=PA73&dq=船井幸雄 

(船井幸雄にもトラブルと問題の火の粉が掛かったようだ)

しかし、船井幸雄はさまざまな人物をクローズUPしてはお金儲けの種にして来たので有名な霊能者である某コンタクティーの話では、自分で自分の首を絞めることになる霊視したことを聞いたことがある・・・

まさに

ややこしくなったら

お金を追え

と言うことが基本なのか?


オイラも船井幸雄を尊敬している



お金儲けのスタンスについては

別だ



不思議な夢の答えを具間見る・・・・・