好きな武将紹介『立花宗茂』 | かつぼうさんのブログ

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大好きな歴史の事等を「軽い暴言」を含めて(笑)書いていこうと
思っています。なにとぞ生暖かい目で見て下さい。

何だかものすごく久しぶりの歴史談義ですねぇ(笑)。ってか、自分でも「歴史談義」のテーマ、忘れていましたわ(笑)。
 
今回紹介する武将は、前回に紹介した武将 「 高橋紹運 ( http://ameblo.jp/m-katsubou/entry-11356864898.html ) 」 公の実子にして前々回に紹介した 「 立花道雪 ( http://ameblo.jp/m-katsubou/entry-11341915655.html ) 」 公の養子である 『 立花宗茂 』 公です。
 
 
宗茂公は、かの豊臣秀吉公に 「 東に本多忠勝(徳川家康公の配下の猛将)あり、西に立花宗茂あり 」 と言わせた程の強い武将です。秀吉公にとっては、西日本最強の武将で、いわゆる「 西国無双ドンッ 」であったのでしょう。
 
 
宗茂公は、1567年に高橋紹運公の長男として生まれました。11歳の頃、嫡子がいない立花道雪公の婿養子となりました。初陣は14歳の頃、筑後(福岡県)の名家にして大友氏の宿敵・秋月氏との戦でした。誰もが緊張する初陣で、宗茂公は手柄を挙げます。相手の侍大将を弓で負傷させ、組み手を望んだその侍大将との望み通り組み手にてやり合い、見事に討ち果たしたそうです。
 
ちなみに 「 組み手 」 とは、要するに取っ組み合いグーです。刀や槍が上手い武人は尊敬されましたが、一番はこの「組み手」が強い武人でした。
 
 
1578年の耳川の戦で島津氏に大敗した大友氏ゲッソリは、宗茂公の養父・道雪公と実父・紹運公のタッグで何とか持ちこたえていましたが・・・。1585年に養父の道雪公が亡くなると状況は一変。実父の紹運公も、岩屋城の戦いで島津氏相手に大健闘しましたが討ち死にしてしまいました。島津軍は、このすぐ後に九州に攻め込んできた豊臣軍に降伏。その際宗茂公は、立てこもっていた立花山城を出て島津軍を追撃爆弾。多くの将兵を打ち取ったそうです。この戦いを見た秀吉公は喜び、大友氏より宗茂公を譲り受けて直臣に取り立てました。宗茂公は柳川13万石を与えられ秀吉公直属の大名に取り立てキラキラられました。
 
 
この後、肥後守護の佐々成政公どころか救援部隊をも散々打ち破った肥後国人一揆を制圧。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)でも手柄を挙げました。関ヶ原の戦いでは色々な人に東軍へ味方する様に勧められましたが、豊臣氏には恩義がある上に太閤検地で石田光成公にも世話になったそうで、その縁で西軍に加担。大津の京極氏を攻略していた為に、関ヶ原には参戦しませんでした。攻略中に西軍が敗れてしまいますが、宗茂公は大阪城にいた毛利輝元公(元就公の孫)に徹底抗戦を進言メラメラします。ですが、有名なお爺ちゃんに似ても似つかないこのお坊ちゃん大名は、宗茂公の進言を受け入れませんでした。やむを得ず、宗茂公は船で柳川に帰りました。
 
 
国許では、有名な加藤清正公や鍋島直茂公と戦いましたが多数に無勢。朝鮮で共に戦った清正公や直茂公は元々豊臣方の家臣なだけに宗茂公に同情的。説得され、降伏しました。その後4年ほど浪人生活を送りました。その際、色々な大名からのスカウトがありました。加賀前田家からは何と!10万での誘いがあったそうですが、宗茂公は断っています。あくまで「大名としての復帰」「お家再興」に拘ったそうです。そして遂に1604年に2代将軍秀忠公に気に入られ、一旦は旗本に取り上げられた後に陸奥棚倉で1万石で大名に復帰しました。1万石とは言え、西軍に加担し取り潰された大名の復帰はとても珍しいです。
 
 
大阪冬の陣/夏の陣では、宗茂公が恩義のある豊臣家に味方する事を皆が恐れました。ですが徳川家によって大名に復帰した事で、徳川にも恩義を感じていたのでしょう。宗茂公は徳川秀忠公(この頃は既に2代将軍に就任しており、名目上の総大将)に従軍。大阪方に捨て身の攻撃をしかけられて、壊滅寸前となった秀忠公の本隊を守りきり筋肉ました。カッコいいです!
 
 
その後1620年に旧領の柳川に復帰し11万石を貰いました。改易前と同じ地での復帰は、宗茂公だけです。尤も、3代将軍・家光公にも重用されて、ほとんど国許には帰れなかったでそうですが。
 
 
有名な島原の乱(1637年)では、総司令官の松平 伊豆守 信綱(まつだいら・いずのかみ・のぶつな=あだ名は「知恵伊豆」)公をよく補佐しました。既に70歳を過ぎていたのに、甲冑を身につけて前線にも出ました。あまりに威風堂々とした勇姿に他の将兵が畏怖し、「 武神再来 」と言ったそうです。カッコいいですね!
 
 
1642年、享年76歳にて江戸で亡くなりました。
 
 
 
さぁ、逸話です。有名な武将ですので、た~くさんあります。いくつかを紹介しますね。
 
 
 
立花家の養子になって間もない頃、道雪公と散策をしていた時の話です。イガ栗を踏んづけてしまい、足に刺さってしまった叫びそうです。道雪公の付き人に抜いてくれと頼んだところ、なんと!その付き人は逆に押し付けたドクロそうです。横では道雪公が睨んでいて悲鳴さえ上げられなかったお坊ちゃんは、とにかくスパルタで鍛えられたそうです。
 
肥後の国の国人一揆を討伐した時は、1日に13回も一揆に戦を挑んだそうです。書き間違いではありません、1日で13回です。戦の呼吸も分かっていた、いわゆる「機を見るに敏」だったのでしょうね。その戦いで、宗茂公は本領安堵を条件にある武士団12人を助けたそうですが、無情にもその武士団を処刑せよドクロと秀吉公からの命令がありました。どうしても処刑できなかった宗茂公は、選りすぐった12人の家臣とその武士団を決闘させたそうです。立花家の武士団にも被害は大いに出ましたが、その武士団を撃ち取りました。処刑ではなく華々しい戦で散らせたのですね。宗茂公は情けのある武将です。
 
文禄・慶長の役でも活躍しましたが、その際の戦いぶりは「立花軍3,000は、万に値する」と大絶賛されたそうです。
 
関が原の戦い直後に名目上の総大将毛利輝元公に徹底抗戦を進言したものの取り上げられず、船にて国に帰る事になった際の話です。何と言う偶然でしょうか!同じ船に、父のカタキである 島津義弘公 が乗り合わせていました。関ヶ原で部下のほとんどを失った島津軍に対して、立花軍はほとんど無傷。紹運公の仇を討ちましょう!ドンッとはやる部下も多かったですが、宗茂公は「弱っている相手を討ち取るなんて真似をしたら、あの世で父にどう顔向けしろと言うのだ!」と言って、その部下達を一喝しました。そして何と船内で島津軍を警護して、義弘公とも仲良くキラキラなりました。
 
加藤/鍋島に説得され、柳川城を開城しようとした時です。柳川の領民達が城に来て、泣きながら宗茂公に訴えました。「我々領民は、殿様(宗茂公)の為なら討ち死にしてもいいです。ですから、降伏しないで下さい。」 すると、宗茂公は「お前たちを戦乱に巻き込みたくないのだ。わかってくれ。」と涙ながらに説得。領民は泣きながら宗茂公を見送りました。これより20年後に、宗茂公は柳川に復帰します。当時の領民は、さぞや喜んだ事でしょう
 
ちなみに、↑にも書いた島津義弘公は鹿児島に帰ると、柳川にすぐに援軍を送りました。援軍が到着したのは柳川開城後だったそうですが、さすが義弘公も仁義のわかる武将乙女のトキメキですね。
 
もう一つちなみに、柳川城を明け渡し改易された時にどうしても宗茂公の元を離れるのが嫌で、その後も宗茂公に付いてきてしまった家臣は20名ほど居たらしいです。そしてその中には何と!、↑に書いたイガ栗を宗茂公に押し付けた武士も居たそうです。
 
陸奥棚倉で徐々に加増され、最終的には同地で3万5千石にまでなりました。その事に嫉妬されて色々あらぬ噂を立てられましたが、上に書いた通り大阪夏の陣では将軍・秀忠公を大阪方の捨て身の攻撃から守りきりました。そのとき、将軍を守るべき三河武士の多くは将軍を見捨てて逃げてしまっていました。その後、当たり前ですが宗茂公の悪口を言う者はいなくなりました。
 
1620年に11万石で柳川に復帰した時、手狭だった屋敷を石高相応に大きくしようと進言した家臣も居たそうですが.....。「屋敷が大きくなると、お前たちとも距離が出来てしまう。そうなると、心まで離れてしまう。屋敷は狭いままでよい。もうお前たちと離れたくないのだ」と言って屋敷の建て直しを拒否したそうです。なんて家臣思いの感動的な言葉でしょうか?この言葉を聞いた時、感極まって泣いてしまった家臣も多かったそうです。
 
晩年、3代将軍家光公の相伴衆(話し相手みたいなもの?)の一人になった宗茂公は、あるとき家光公に質問されました。「お主は大津を攻めていた為に関ヶ原では戦っていなかったそうだが、もし戦っていたら何をするつもだったか?」 すると宗茂公は、同僚の相伴衆をじろりと見回して不敵に言いました。「はい、東軍の武将のおん首を一つ一つ頂戴する(=討ち取る)つもりでおりました。」 そうです、相伴衆の多くは、実際に東軍として戦った武将だったのです。
 
 
 
 
とりあえず、(間は空きましたが)九州の武将で好きな3人ラブラブを連続で紹介しました。九州らしく、熱い武将メラメラが多いですね。