今回紹介する武将は、『 石田三成 』公。結構有名な武将ですよね。有名な「関ヶ原の戦い」の西軍の事実上の大将です。名目上の大将は(これも有名な)毛利元就公の孫・毛利輝元公でしたが、彼はずっと豊臣秀頼公を守って大坂城(勿論今の大阪城)にいましたんで。
彼は、後に天下人になった徳川家康公に最後まで逆らいましたので、江戸時代以降の歴史書には(当然ながら)良くは書かれてません。ですが、1590年に小田原北条氏を滅ぼして以降の占領地の政策等(多少強引でしたが)を見ても、有能であった事に疑問の余地はありません。
私利私欲は全くありませんでした。関ヶ原に近かった居城の佐和山城は、西軍が関ヶ原の戦いに負けるとすぐに陥落してしまいましたが・・・。城内は非常に質素で、「貯め込んでいる」と噂されていたお金等
は全く無かったそうです。まさに「清貧」でした。これに比べれば、恩賞を約束して東軍に引き込んでその(約束の)ほどんどを反故にした家康公の方が、よっぽど「 悪 」ですよ。
織田信長公が妹婿だった浅井長政公を滅ぼした後、手柄のあった豊臣秀吉公(当時は木下藤吉郎と名乗っていましたが)に長浜城が与えられました。そう、秀吉公が初めて「城持ちの大名」になったのです!この時、お父さん・お兄さんと一緒に秀吉公に仕官したのです。
ですが、秀吉公には(当然ながら)尾張時代からの家臣が居いましたが(有名な加藤清正公や福島正則公ら)、彼らにはこころよく思われてはいなかった様です。
小田原北条攻めの際に武州忍城(埼玉県行田市)を攻め落とす事ができなかったり、関ヶ原の戦いでは家康公の思惑通り大垣城からおびき出されたりと、「武将としての能力」はお世辞にも高いとは言えません。
ですが、兵站と言われる後方支援(武器/弾薬/食糧の補給)に関しては天才的。三成公がいなかったら、四国や九州をあれほど短期間で制圧できなかったと言われています。惜しむらくは、その「兵站」は当時あまり評価されない仕事でした。戦場での働きは相手を倒してナンボという考え方だったのでしょうね。
また朝鮮攻めでは「軍監」として現地に赴きましたが、現地の情報をありのままに秀吉公に連絡してしまった為に他の武将の顰蹙を買ってしまいました。結構大げさに報告した武将も多かったのです。
関ヶ原の戦いの敗因は色々ありますが・・・。 ①↑に書いた通り、大垣城をおびき出され野戦をせざるを得なかった事、②西軍を裏切った小早川秀秋公(何と豊臣秀吉公の姉の子!)や西軍でありながら戦いに参加しなかった毛利勢や吉川勢との人間関係の構築の失敗、③島津豊久公(島津義弘公の甥)が献策した、家康公への夜襲案の却下等・・・。頭が固かった事ですね。
性格が傲慢だったのは事実な様で、それでかなり損をしています。ですが、単に「嫌な奴」だったら大谷吉継公や(ジャンプコミックスにもなった)島左近や舞兵庫、蒲生郷舎(本ブログでも少し紹介)みたいな武将がついてくる訳がありません。
思うに三成公は、ただ単に自分をひきたててくれた豊臣秀吉公への恩返しがしたかったのでしょう。豊臣政権が長く続く様にしたかっただけだったのでしょうね。