服部半蔵は忍者にあらず! | かつぼうさんのブログ

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思っています。なにとぞ生暖かい目で見て下さい。

かつぼうのブログ-半蔵01


戦国時代にあまり興味がない人でも「服部半蔵」の名は聞いた事があり、伊賀なのか?甲賀なのか?はともかく「忍者手裏剣」だったという認識も持っておられるでしょう。

ですが、史実は違います。今回紹介する『 服部半蔵 』は、確かに伊賀忍者軍団を配下に持ってはいました。ですが、半蔵自身は忍者ではない叫びのです。

↑に単に「服部半蔵」と書きましたが、この中の「半蔵」とは言わばミドルネーム服部家の当主が、代々受け継いでいった名前でした。皆さんが知っている「服部半蔵」は徳川家康公に仕えた半蔵で、正しくは「服部 半蔵 正成(まさなり) 」です。長ったらしいので、以後は「正成」と記載します。

彼のお父さんである「服部 半蔵 保長(やすなが) 」は伊賀出身で忍者だったのかもしれませんが、正成自身は槍の使い手槍として有名でした。その槍は、三河宇土城城(愛知県蒲郡市)攻略で手柄があり、ご褒美として家康公から貰ったものです。以後、「鬼半蔵節分」の異名を取り、徳川十六神将にも選ばれています。

その後も徳川家康公に従い武功を上げますが、最大の功績はいわゆる「神君伊賀越え」の際の働きです。本能寺で織田信長公を討ったドンッ明智光秀公は、わずかなお供と共に大阪見物をしていた家康公を狙いましたパンチ!。光秀公から逃れるために、伊賀を通って伊勢に抜け船で三河まで帰る計画を立てましたが、伊賀忍者手裏剣は「お金の為なら何でもする傭兵軍団」です。信長公はかつて伊賀を攻め、多くの伊賀忍者を討ち取っています(天正伊賀の乱)。その仇を取った形になった光秀公に伊賀忍者軍団が臣従したら、家康公一行はひとたまりもありません。そんな中、正成は先祖の出身が伊賀である事で忍者軍団と交渉しました。そして彼らに家康公を警護させ、伊勢まで逃がす事に成功グッド!します。

この事が縁で後に伊賀忍者軍団は家康公の配下になりますが、さすがに家康公の「直属」という訳にはいきません。家臣に預け与力とする事になり、それに正成が選ばれたのです。「神君伊賀越え」の際の功績と「先祖が伊賀出身」だからです。

また、お父さんの保長ですが・・・。彼も忍者だったかもしれませんが、黒装束をまとって相手の忍者と手裏剣等で戦った事等は無いでしょう。忍者は「上忍」「中忍」「下忍」と身分が分かれており、保長はおそらく上忍だったと思います。上忍は、戦闘能力が多少良いだけで他は一般武将とあまり変わりません。中忍でさえ、現場に行くには稀だったそうです。従って、黒装束は下忍(・。・)の事を言います。


また忍者の主な仕事は、「相手国の情報収集叫び」と「相手国にデマを広めるパンチ!」事です。「半蔵」を名乗った服部家の当主が、黒装束を着て下忍の仕事をした可能性は無いと思います。

江戸城の半蔵門は、服部家の当主の通し名の「半蔵」から取っているのは有名な話です。で、ここで豆知識。千住が起点の日光街道や、日本橋が起点の東海道等と違って、甲州街道(今の国道20号線)の起点は江戸城・半蔵門です。何かあった時に盆地で守りやすい甲州に逃げ込む為に、甲州街道沿いには(いざと言う時には将軍家の味方になる)御家人/旗本の屋敷が多かったそうです。

かつぼうのブログ-半蔵02
大好きだった影の軍団(↑)も、実際はあり得なかったんだなぁ。相手のボスキャラをやっつける時に、「天魔覆滅」なんて言ってなかったんだなぁ。

もし「忍者好き」の方が本ブログをご覧になったとしたら、本当に申し訳ないです。夢をぶっ壊しちゃって。かく言う私も千葉真一さん主演の「影の軍団」を心ときめかせて見ていたので、「服部半蔵≠忍者」の事実を知った時は大ショック叫びでした。


ちなみに半蔵系の名前を紫色にしているのは、東京メトロ・半蔵門線に敬意を表してです。