今日の絵ハガキ。
浅丘ルリ子。
憮然たるものがある。
10年以上毎日絵を描いているのだ。
もう少し、上手く描けそうなものだ。
私の自画像と言っていいぐらい、私にそっくりな(ばんびちゃんが言った)小林旭を描いてみよう。
うーん、似せるのは諦めた。
今度は罷免された裁判官。
顔の血色と陰影、立体感を出すことに集中。
美男美女よりクセのある岡口判事のような人は、顔もクセがあり描きやすい。
花カイドウ。
私は、幼い頃から漫画家になりたかった。
漫画家になれなかったら、お相撲さんになりたかった。
スポーツマン金太郎を描いた寺田ヒロオは、野球の選手になりたかったし、学校の先生にもなりたかった。
学校の野球部の監督になり、野球を指導し、子どもたを教え育てるのが夢だったという。
しかし、寺田は進学せずに、電報電話局に就職。
電報電話局では社会人野球の投手としても活躍し、都市対抗野球大会にも出場した。
その後、井上一雄・福井英一の漫画『バット君』に刺激され、1953年、22歳の時に漫画家になるために上京した。
私は寺田ヒロオの背番号ゼロを、読んでいた。
幼心にも、寺田ヒロオの漫画は説教臭いと思っていたが、それでも面白い漫画だった。
寺田には野球漫画は、野球を指導し、子供を先生として教育するのは、子供の時からなりたかった野球選手と学校の先生を両方満たすものだった。
だから、子供に悪影響を及ぼすと思われる劇画の流行は、許せなかった。
雑誌編集者に、自分のような良心的漫画を選ぶか、巨人の星のような俗悪な劇画を選ぶか迫ったのだ。
寺田には、梶原一騎やさいとう・たかをのような劇画は我慢ならなかった。
寺田には、子供は大人が守り育てるものだった。
子供は自分でいい漫画かそうでないかは判断できる。
例えば貸本漫画の墓場の鬼太郎は、子供なのに酒や煙草をやっていても、架空の妖怪の世界の話であり、それに影響をうけるほど子供はやわではない。
私が漫画家になれる才能があったら、たぶん相撲漫画を描いたろう。