今日の絵ハガキ。
カモシカ。
カモシカの写真を見るとたいてい、カメラの方を向いている。
好奇心からではなく、臆病さからだ。
葛西 善蔵。
大正時代に、自身の貧困や病気といった人生の辛苦や酒と女、人間関係の不調和を描き、「私小説の神様」と呼ばれる。
葛西の作品は、ほとんどが自らの体験に取材した〈私小説〉といってよいもので、そこに描かれた貧困や家庭の問題は、その真率さで読者に感銘を与える。
一方、妻を故郷に置いたまま別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある。
酒乱で破天荒な生活、それをネタにした葛西の文学は、アル中文学である。
晩年には、手がひどく震えて、自分で筆をとることができず、小説を執筆中も酒を飲み、編集者相手に何日もかかって口述筆記をしてやっと、それも短編を仕上げた。
それが一部の読者に受けたようだが、それが自業自得とはいえ、そのために悲惨な生活に、妻子や同棲相手を引きずり込んでいる。
この人の代表作、「子を連れて」などの作品にも救いがない。
貧乏して、家賃を払えず、立ち退きを求められる話だ。
困窮者を受け入れない社会がどうだらという書評もあるが、その原因を作ったのは善蔵さんだ。
無計画に入った金を酒に女に使いつくすのでは、どんな社会であろうと、家賃さえ払えぬ貧乏暮らしから抜け出せるわけがない。
この小説に出てくる子供が可哀想である。
石川啄木も、自分の悲惨な生活を歌に歌った。
啄木さんも、別に暮らしていた妻子に送金すると言う事で、金を借りていながら、その金を芸者遊びに使い果たすような男だった。
そういう事を知って、啄木さんの歌を読むと、また別な感想を持つ。
私が好きな歌。
「人が皆 我より偉くみえる日よ 花を買いきて妻としたしむ」
啄木さん、妻に花を買うような人ではなさそうだ。
もしそういうことがあったとしても、民子さんにしては、花より子供に腹いっぱい食べさせたいと思っただろう。
啄木の二人の子供さんも、不幸続きで早死にしている。
50代になっても、電気水道のない物置小屋で寝起きし、わずかな原稿料が入ったら女を求めて、売春街を彷徨した川崎長太郎の生活は、家族がいない分だけ、惨めであっても私には好もしい。