いつもありがとうございます。ミズです。


このブログにお越しいただき、感謝いたします。


自分という人間は、何なのか。


自分は、一体何者なのか。


自分は、自分をどう定義したらいいのか。


小難しい理屈を持ち出して、読者のみなさんには大変恐縮なんですが。


一度、この話もしてみたいなと、以前から思っていました。


なので、お付き合いいただけたらありがたいですし、つまらなければ、ブログを閉じてくださっても結構です。


では、始めましょう。


普通は、何らかの “ タイトル ” を自分の名前に付けて定義することが、一般的かなと思います。


例えば、自己紹介する際には、「〇〇会社の✕✕です。」とか、「●●市役所の◆◆です」とか、「◇◇事務所・公認会計士の▲▲です」とか言いますよね。


自分自身に対しても、「△△大学経済学部出身だ」とか、「□□という名家の血筋だ」とか、「国会議員の■■だ」とか、考えることもあるはずです。


つまり、世間一般的に通用している「何か」に拠って、自己定義している。


その「何か」のステータスが高ければ高いほど、鼻高々に、自信たっぷりに生きていけるけど。


ステータスが低いと、他人に隠したり、劣等感の虜になることも多いです。


そう言えば、ミズさんも、過去にこういうことがありました。


まだ30代前半くらいの時に、友人の結婚式の2次会に呼ばれたことがあって。


その頃、就活の苦労がようやく実って、再就職が決まったばかり。


スタートはアルバイトからでした。


で、結婚式の2次会ですから、そこに集まっているのは、年頃の若い男女ばかり。


みんな、良い相手がいないか、心の中で物色しているであろう中に。


アルバイトを始めたばかりのミズさんが、ポツンと一人だけ混じっている。


本当に、恥ずかしいやら、肩身が狭いやら。


どんな仕事をしているかなんて言えるはずもなく、人から聞かれるのも怖くて、早々に退散しました。


このように、職業・会社名・出身大学・お金・容姿・知名度・家柄・血筋等が、自分が何者なのかを定義する根拠になっている。


それらが、その人の自信・安心の拠り所、プライドの根本なんですよね。


だから、その “ 価値 ” が無いと生きていけないし、万一失いでもしたら、人格が根底から崩れてしまうわけです。


こんなことを書いていると、ミズさんが、価値を多く持つ人たちに嫉妬して、否定したがっているように思う方もいるかも知れませんが。


そんな気は、全然ありません。


ステータスの高い人たちも、それぞれ必死に頑張って

、努力して、その価値を手に入れたんでしょう。


その頑張りの結果である価値を物差しにして、自分を測ることは、正当ですよ。


ただ、正当なんだけど、「それが全てだ」と思い込み過ぎたら、間違いを生むこともあるんじゃないかなと思うんです。


ステータス的価値をより多く持っていると、人から羨ましがられますが、その反面、嫌われたりすることも、よく起きます。


なぜでしょうか。


ただのやっかみだけとは限りません。


その価値を、自分そのものと同一視しているところが、ある種の “ 思い上がり ” に見えるからです。


その一方で、ステータスが高いのに、価値をたくさん手に入れているのに。


不思議と嫌われない人もいます。


苦労人の名経営者などに、よくあるタイプです。


その人たちには、ある特徴があるように思われます。


今申し上げたのとは逆で、「価値」と「自分自身」とを同一視していないところがある。


どこか達観している。ステータスの高い自分を突き放して見ているところがあるんです。


つまり、それらは一種の “ 仮面 ” のようなものだと認識されているようなんですね。


ある思想家の言葉に、「人が一日中考えていることが、その人である。」というものがあるんですけど。


これに通じるような考え方を持っているんじゃないか。そんな気がしますね。


つまり、ステータス的価値を持っている・いない以前に、人間としてどうなのか。ちゃんとしているのか。


これを考えることができる人たち、と言いますか。


いつでも原点回帰できるだけの、心のゆとり・余裕がある、と言いますか。


少なくとも、このタイプの方々は、自己定義の仕方が、他の人とはかなり違うようです。


「その人の思うことが、イコールその人自身だ」


この言葉は、わたしたちも覚えておいて損はないと思います。


自分の定義は、人生の段階段階で変化するものでしょうけど、この「考えがイコール自分だ」という定義を、時折入れてみるのも悪くない。


これが、今回のまとめになりますかね。


それでは、またお会いしましょう。


最後までお読みくださって、ありがとうございました。