いつもありがとうございます。ミズです。


このブログにお越しいただき、感謝いたします。


この前、たまたまテレビの録画リストを眺めていましたら、「ブラタモリ」を見つけました。


設定を間違えたのか、変えずにそのままにしていたのか、偶然録画されていたようです。


「へぇ~、まだやってたんだ。何か久しぶり。」


「ちょっと観てみようかな。」


明日も仕事で、もう就寝する時間でしたけど、つい興味をそそられて、10分ほど観ることにしました。


その回では、「平等院鳳凰堂」について深掘りしていまして。


読者のみなさんはご存知でしょうか。


歴史の授業では、平安期あたりだと、必ずと言っていいほど出てくるくらい、有名な建築物なんですよ。


もしご存知ないとしても、10円玉の裏に刻まれている建物のことだと申し上げれば、お気付きになるはず。


これを建てたのは、「藤原頼通」という人です。


頼通の父親が、藤原氏の全盛期を築いた、あの藤原道長。


道長の別荘があった場所に、頼通が建てたのが、この平等院鳳凰堂なんですね。


道長の後を継いだ頼通は、藤原一族のトップでした。


絶大な富も権力も手に入れていた頼通が、最後に願っていたのは何か。


「来世の極楽往生」です。


現代人のわたしたちからすると、すごく違和感がありませんか?


これには、当時の時代背景や世相、頼通の個人的事情も絡んでいたので、少し解説しておきます。


平安末期は、一言で言えば、「末法思想」と「社会不安」が重なった時代。


表面上は、依然として貴族が政治を牛耳る一方で、各地で武士団が生まれつつあり、武家時代への胎動が静かに進行しつつありました。


飢饉や疫病もたびたび起き、流民や盗賊も多く、つまり、かなり荒れていたんです。


一方で、末法思想という、一種の暗黒思想が流行していました。


末法とは、釈迦の教えが正しく伝わらなくなった末に、世が乱れて人々が救われなくなる、という時代観のこと。


荒れた世相を見ればまさにその通りなので、人々は「末法の世が来るのではないか」と怯えていました。


そこに浄土教の信仰が広がって、「阿弥陀様への念仏によって極楽往生できる」ことが、イコール、救いと理解されたわけなんですね。


浄土系の念仏信仰は、民衆だけではなく貴族社会にまで浸透していき、当然、頼通も深く信じていました。


ここに、頼通個人の事情まで加わってきます。


実は、彼の祖父も父も62歳で死去してたため、もしかしたら自分も⋯と怖れていたらしい。


さらに、その62歳になる頃の「1052年」というのが、末法の時代が始まる “ 元年 ” とされていたものですから。


恐怖も “ マックス ” だったんですね。


平等院鳳凰堂が1053年に創建されたのも、実際には、そのためだったようです。


当時の頼通の、来世往生への必死さがどれほどだったのか、ひしひしと伝わってきます。


現代人から見れば、平安期の人々が、迷信深くて、無知で、愚かに思えるかも知れません。


先ほどの「末法思想」や、阿弥陀様や菩薩様方が大勢お迎えに来てくださるという「お迎え現象」については、また別の機会にお話するとして。


今回は、「死後の救い」にフォーカスしてみたいと思います。


簡単に結論から言わせていただきますと、


「あの世の世界、霊界の存在を信じていること」


そして、


「昔の人たちが極楽と呼んでいた天国へ、無事に帰還できること」


はとても大切なことで、この点に関しては、平安期の日本人の方が進んでいたのではないかと思えます。


現代人の方が、むしろ “ 退化 ” しています。


つまり、平安期の浄土教的信仰は、本質的な部分では、きわめて的を得たことを言っているんです。


「来世、天国に還りたい」なんてことをまともに言えば、“ 頭がオカシイ人 ” 扱いされて終わりになるのが、現代という時代です。


そういう世相である以上、表向きはそれに合わせおけばいいし。


日常生活で周りの方々と交流する際は、わざわざ言う必要も無いとは思います。


ムダなイザコザや軋轢は、避けるのがいちばんだからです。


ただ、人間は必ず死ぬものだし、その死がいつ訪れるかは、実際のところ、全く分かりません。


ミズさんだって、いきなり会社で倒れ、緊急入院・手術を体験していますから。


そして、この世は仮の世界で、あの世の霊界が本来の住処であることは、ある程度、情報収集して調べていけば、誰でも否定できなくなります。


なのに、現代人は無視したがります。


それでどうなるのかというと、死んでも霊界に移行できずにこの世に留まり、“ 幽霊化 ” している方々も数多いわけですね。


ですから、他の人に言う・言わないは別として、自分自身は信じていた方が良いし、来世の幸福も願っておくべきだと思う。


その「思い」が「ある」ことが前提になって、救いも実現してくる可能性が高まるからです。


だって、現在ただ今の生きる姿勢だって変わってきますでしょう?


古い言葉ですけど、“ 一日一善 ” 的に、できるだけ善行を積んでおこうとする意欲とか、悪事は極力止めておこうという抑止力とか。


こんな力も働いてくるはずなんです。


でも、そもそも思いが存在しなければ、何も始まることも、変わることもありません。


ここでも、「思いの先行性」という法則が働いているんですね。


それに、「信じる」とは「つながる」ということでもありますから、素直に霊界を信じられるということは。


あの芥川龍之介の『蜘蛛の糸』みたいに、阿弥陀様的な存在から垂らされている糸を掴む行為にも等しいと思うんです。


なので、死後の救いを求めることは、恥ずかしいことでも、後ろめたいことでもありませんから。


表面上は別としても、堂々としていたら良いと、ミズさんは思います。


それでは、またお会いしましょう。


最後までお読みくださって、ありがとうございました。