中宮八幡堂跡に到着しました。標高1280m。
今は寂しいけれど、明治末ころまでは茅葺屋根の神社や馬立小屋、杖小屋等がありました。村山の人が常駐しており、ここから上は馬で登ることは許されず、女性は女人堂に籠もって富士山頂上を拝み、是より先には登れませんでした。
10月末に村山地区の方たちによる中宮八幡堂祭りが行われます。
式が始まる前に、何台かの草刈り機が一斉に始動し、大きく育ったバイケイソウの群生なども一気に刈られていきますが、中宮八幡堂の石段近くのこのトリカブトだけは大事に残されています。一株しかないこと、青紫の花が可憐に見えること・・・同じ毒草なのに心理的に違うのでしょうね。
富士山麓山の村では小さく大人しかった日沢も、中宮八幡堂近くではこんなに広く荒れた沢になっています。
かつてはここに橋がかかっていたそうで、畠堀操八氏がコピーしてくださった『松浦武四郎紀行集(上)丁亥日記』によると
「一合に来り八幡宮小屋有。表口の(火偏+)焦印を杖に捺す也。傍に川有。橋あれども朽たり。余、橋の朽て折れたる故落ちて大に驚たり。表口の馬留と云う。」
北海道の名付け親の松浦武四郎(1818―1888)は朽ちた橋をわたって、折れて落ちて驚いたというのですね。
中宮井戸という標識。
「深い穴があって、少量だが水がある。いまは秋で枯れきってゐるが、夏ならばこの水は使用出来るものと思ふ」
冠松次郎(1883−1970)が1942年10月に書いた文章を畠堀操八著『富士山 村山古道を歩く』に引用しているのでお借りしました。
その右奥は八大竜王跡の標識。
水神の石祠と白く苔むした八大龍王と彫られた石碑。
この2つは中宮井戸の隣にあったけれど、普段は涸れていても日沢の水かさが増して爆流になることもあり、元の場所では危ういため、数年前に一段高いところに移したものです。
ほっわほわの苔の道を登っていくと・・・、
少し平に開けた場所。女人堂跡であろうということで、まずは女性だけでいつも写真を撮らせて頂いています。富士山の女人禁制が解かれたのは明治5年(1872)、それまでは「女人是まで」でした。
この開けた場所は六観音、六地蔵、あるいは「西河原」といわれています。標高1340m。
午後6時30分を過ぎて、ヘッドランプが必要になってきました。
18時35分スカイラインに出ました。
スカイラインもふじ爺さまが時々熊除けの笛を吹きながら歩き、約30分後に西臼塚駐車場に着きました。
花いっぱいの一日はここで解散となりました。
次回からはこの日(5月11日)に出会った花の報告をいたします。
(つづく)