紀尾井町 清水谷公園で「廣群鶴」と再会 ② ローリング父さんと「廣群鶴」 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

2015年の前後は富士山・村山古道仲間(山仲間 街歩き仲間)で「廣群鶴」が一大ブームになっていました。

その火付け役はローリング父さん。

写真は富士川から見る秀麗な富士山。右端は水神の森。

 

 

 

水神の森にたつ「富盡河帰郷堤の碑」。帰郷堤は富士川の氾濫によって築かれた堤防です。

 

 

 

ここに廣群鶴刻字と彫られています(字は違いますが)。                 

これらの写真はローリング父さんが送ってくれたものです。

 

 

 

『帯笑園案内』(沼津市原)

 

 

 

『松永家の百年』(富士山かぐや姫ミュージアム 刊行物)

ローリング父さんは富士山・村山古道をよく登り調査もしていますが、郷土の歴史にも興味津々、いろいろな場所を訪れては掘り下げていきます。

その中で、廣群鶴の刻字に出会うことが多く、惹かれていったようです。

 

 

 

実際に松永家の墓所にも行き(金正寺)、廣群鶴を確認しています。

 

 

 

 

廣群鶴とは?

当時、私なりに調べてみましたよ。

地域誌『谷根千』(谷中 根津 千駄木) 其の四十二 (1995年春)は廣群鶴と谷中の石屋の特集。

 

 

 

廣瀬群鶴(実名)は明和9年(1772)の目黒行人坂の大火のあと、谷中(現 台東区)で石屋を開業。屋号は「群鶴」、彫刻師としての号を「廣群鶴」。

昭和31年の廃業まで九世にわたり続きました。

名を継ぐのは自分の子とは限らず、弟子の中から腕のいい者が選ばれたそうです。

 

 

 

 

 

郷土史家 加藤勝丕氏による廣群鶴が彫った石碑の一覧表が載っていますが、なぜか「贈右大臣大久保公哀悼碑」は記載されていません。残念ですねえ。

 (つづく)