富士山 村山からの下向道 ① ✿村山浅間神社 富士山興法寺 村山修験 村山道の道しるべ | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

一人、"地下鉄の地上を歩く会"

山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

今日は2月23日、富士山の日。で、「富士山 村山からの下向道」。

(偶然ですけれど。)

 

 

 


2月14日、下向道(げこうみち)の探索グループに畠堀操八氏が同行するということで、私も強引に加わらせていただきました。
先ずは車で富士宮市の富士根本宮(ふじこんぽんぐう)村山浅間神社へ。

 

 

 


梅が満開の境内。右に富士山興法寺大日堂、左に村山浅間神社。神仏習合が色濃く残っています。

 

 

 


富士山興法寺大日堂。その前の水垢離場では開山式や越年祭で水垢離が行われます。

 

 

 


村山浅間神社の拝殿と本殿。
畠堀操八氏は約1時間、境内の案内と5種類の江戸時代の絵地図を参考に下向道の類推を説明してくださいました。

 

 

 


「東見付」跡。
「見付とは、旅人を迎え入れる木戸とは違って、敵を防ぐ軍事施設である。」(畠堀操八著『富士山 村山古道を歩く』参照。)
さらに「戦国時代、村山修験が勢力を持っていたころはここに木戸があり、番兵が詰めて、村山への出入りを監視していたはずである。門跡を戴く京都は聖護院本山派という宗教的権限を振りかざす村山修験は、(中略)戦国大名・今川の軍事スパイを務めたともいわれる。」
ここには載せないけれど当然「西見付」があり、この間は村山修験の結界と言われています。

 

 

 

東見付を過ぎて左に入った富士家の墓所に富士山を背に立つ墓標。
山岳修験の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)を中心に、村山修験の祖・末代上人(まつだいしょうんん)も刻まれています。
明治維新の廃仏毀釈までは富士登山は村山の3軒の宿坊(村山三坊)が支配していて、村山三坊から許可された先達に導かれてのみ富士山に登ることができたという。
尊義上人(たかよししょうにん)は池西坊(ちせいぼう)を、頼尊上人(よりたかしょうにん)は大境坊(だいきょうぼう)を、存譽上人(ぞんよしょうにん)は辻之坊(つじのぼう)を開きました。
この墓標を見るだけで、明治維新前の村山が今とは比べものにならないほど隆盛を極めていたことが想像できます。

 

 

 

『富士山 村山古道を歩く』では、田子の浦を出発して広見公園を過ぎ、工場や倉庫を通り抜けた先に、これと同じ種類の道しるべがあり、それに従って「村山みち」を登っていきます。これは7基目で、最後の道しるべ。
でもこの道しるべ、陰刻された部分がいやに真っ白に塗られているけれど前からこんなだったかしら。
「細かいことが気になるのが私の悪い癖。」と『相棒』の杉下右京並み。
写真を調べてみました。2008年に初めて田子の浦から富士山頂に登って以来、毎年村山道は歩いています。
2008年はカメラも携帯電話のバッテリーも切れて写真がない。
2009年はどれも白く塗られてはいない。
基準になるのは必ず撮るようにしている5基目の大淵。2017年までは塗られていない。
2018年、1~3基目までは塗られていないが、4基目のイチョウ畑、5基目の大淵、レリーフ状の6基目、そしてこの7基目も白く塗られていた。
2019年も(2020~2022年のコロナ禍は来ていない)2023年も同じく。

4~7基目を白く塗ったということですね。何で?(目立つように?)誰が?・・・杉下右京は考えるけれど、思い当たらないでいます。4,6,7基目は富士宮市だけれど、1,2,3と5基目は富士市だし・・・。
 (つづく)