泉岳寺でオールコック? ② ✿ 赤穂義士の墓所参拝 気になる寺坂吉右衛門 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

〔浅野内匠頭墓〕
「赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。」

(墓所前の『義士墓解説』より)

 

 

 


〔浅野内匠頭奥方墓〕

 

 

 

〔大石内蔵助良雄墓〕
「家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱しめを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。」

(『義士墓解説』より)

 

 

 


〔大石主税良金墓〕
「義士一同は、十二月十五日夕刻細川家(十七名)、松平家(十名)、毛利家(十名)、水野家(九名)の四家に預けられた。」

(『義士墓解説』より)

 

 

 


「翌元禄十六年二月四日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。」

(『義士墓解説』より)

 

 

 

 

「附記 遂道退身信士(寺坂吉右衛門)、刃道喜釼信士(萱野三平)の墓は供養墓で在る。」 (『義士墓解説』より)

 

 

 


墓所の前の説明板の『義士墓解説』。この短い文章の中にどんなにか多くの史実、秘話、悲恋、エピソードが含まれていることか。
墓所は預けられた家ごとに葬られているのですね。

 

 

 


寺坂吉右衛門は、泉岳寺に着く前に何らかの理由で列から外れたように聞いていましたが、遠藤信夫講師は泉岳寺まで同行したとおっしゃいました。
以前住んでいたところは寺坂吉右衛門の墓のすぐ近く。墓前に参ったこともあり、気になっていたことでした。

切腹した全員には戒名に「刃」がつくが、寺坂吉右衛門にはないと遠藤講師がおっしゃったので初めてそのことに気が付きました。寺坂吉右衛門は切腹を免れたのです。

 

 

 

赤穂義士記念館前の「義士引揚げ行列」の図とチェスのような模型。

 

 

 


吉良上野介の首級は潮田又之丞がかついできたのですね。
後方に寺坂吉右衛門もいます。

 

 

 


墓参を済ませてからの遠藤信夫講師の講演は、中央義士会の理事だからこそご存知のような内容で聴き入ってしまい、メモをとるのを忘れていました。たった2週間前なのに記憶が曖昧で怖くてここに書くことはできないのが残念です。
それにしても、討ち入りが終わったのが朝6時で(今なら15日でしょうけれど、当時は夜明けまでは前日だったのですね)、泉岳寺に着いたのは午前9時。大変な健脚です。
今までにJR両国駅から吉良邸や赤穂義士がたどった道を歩いたことが2回ありますが、由緒あるところを見学しながらとはいえ、午前8時に出発して午後4時頃に泉岳寺到着でした。
 (つづく)