事故の原因は、犠牲者の前意識のなかに隠されているのでしょうか。それとも、人は自分ではどうにもできない災難の犠牲者にすぎないのでしょうか。
じつは事故ですら、前意識の自己の深いところに、前もって作り出された不協和の結果なのです。これは非常に厳しい教えのように思われるかもしれませんが、よく考えてみれば、そうではありません。事故の犠牲者になる魂は、事故にはそれを体験することによってのみ学ぶことのできる教訓があることを、前意識において、十分に知っているのです。
子供についても、きっと質問があるに違いありません。父親が酔っ払って欲情をおこし、その結果生まれたかわいそうな子供たちはどうなのか、と質問したいに違いありません。あるいは、病気の親から、病気をもって生まれた子供はどうなのかと。このような罪のない子供たちもまた、運命によって苦しみに満ちた人生を生きていかなければならないのかと。
あるいは、狂気の肉体に閉じ込められた魂、生まれたときから病に犯された肉体に閉じ込められた魂はどうなのだろうか、という疑問を抱かれるかもしれません。このような疑問に対して、どう
すれば納得のいく答えが得られるというのでしょうか。
これらの場合にもまったく同じ答えが当てはまる、と私たちは答えたいと思います。人間の魂は自分に何が起きるか、ということについての予知能力を常にもっており、自らに提示された人生を受け入れることも拒絶することもできるのです。
このような問題について、きわめて限られた洞察力しかもっていない人間にとっては、どのような動機によって、魂が苦難の人生を選択したのかを理解することは不可能であり、魂がどれほどの苦しみを体験しなければならないのかを垣間見ることすら不可能です。しかしながら、戦慄を覚えるほどの惨事が地上において行なわれているのを目撃した後ですら、人間が、善なるもの、神、宇宙の第一の源と呼んでいる、あの全能の存在の価値を判断してはなりません。たとえ、この存在が幼い子供たちが苦しむのに任せて、何もしないように見えるにしてもです。
私たちがいるところでは、誰であれ価値判断をするということはありません。より広い視野から見ると、神はいかなる意味においても、復讐をしたり残酷であったりするようにはけっして見えないのです。私たちがいつも感じているのは、限りない愛であり、神の思いやりに満ちた知性であり、人間に対する永遠の慈悲心です。私たちに見えるのは、全智全能の父が、自分の子供が歩む道を自由に選択する意思の力を与えている姿です。苦しみの道であれ、喜びの道であれ、エゴを克服していく道であれ、すべての道は上昇を続け、やがては、完璧な宇宙の崇高な意識のもとに帰っていくのです。
コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ より
人によっては簡単に受け入れられる内容ではないでしょう。
該当する境遇の方にとっては尚のこと厳しく感じられると思います。
魂が肉体に宿っている間は限られた視野で物事を見、物的側面から判断しますので難しいですが、肉体を離れて霊的視野で見るとよくわかるのだと思います。
今は納得がいかなくとも、天に帰った後、確かめることが出来ます。神は残酷でも不平等でもなく愛の存在であることを。
