私の両親はカトリック教会で出逢い、結婚しました。父の両親もカトリック、母の母もカトリックでした。
叔父は神父で父は神学校中退です。私も小学生の頃は神父になることも考えました。
当然私も生まれてすぐに洗礼を受け、赤ん坊のころから毎週家族全員で教会に行っていました。ミサは毎週日曜日のほかにクリスマスはもちろん、元旦のミサもありました。ミサは朝9時からなので、7時に起きて8時半には家を出ます。行きたくなくて家の中でグズグズしていると、父が車のクラクションをずっと鳴らします(笑)
当時土曜日も学校は休みではありませんでした。週一回の休みである日曜日はすべて教会でした。一度だけ日曜日に友達とサイクリングに行きたいと言いましたが許してもらえませんでした。(笑)ただ、それが普通でしたので特につらいということはありませんでした。
家では毎晩夕食後に30分くらい祈りの時間があり、家族全員でロザリオの祈りを欠かさずしていました。祈り自体は単にやらされていたので居眠りをしてしまうことも多く、早く終わらないかとそればかり考えていました(笑)
また紋切り型の祈りですのであまり意味がなかったとは思いますが、それでも良い習慣だったと思います。
やはり何か困ったことがあると祈っていましたし、きちんと聞いてもらえていました。というのも何かあって祈った時には不思議と物事がうまくいく事が多かったからです。今も朝晩短めに瞑想とお祈りをしますが、小さい頃からの習慣がありますので特に苦も無く続けています。
今は真理を学び、教会に行くこともありませんが、人はどこでも静かな環境で瞑想や祈りをすることにより天界と繋がることができます。
車で教会に行かなくとも神聖な場所というのは自分の中にあるのです。
カトリック八王子教会(東京カトリック大司教区ウェブサイトより)
もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書きや数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。
祈りの言葉を何の目的も無しに繰り返すだけでは、ただ大気中に一定の波動を起こすだけです。が、誠心誠意、魂の底からの祈り、神の御心と一体となり、神の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものがその人を神の僕としてより相応しく、そしてよりたくましくします。
シルバーバーチの霊訓より
