1、新田義貞像の設置
さて、コラムでございます。
今回は「新田義貞像」について。以前に新田公会(作中では義貞公会)の最大の目的は、皇居前に義貞像を設置することだと述べました。また、群馬県内でも銅像建設が計画されたものの、どちらも上手く行かず。唯一、昭和5年(1930)に前橋の群馬会館に小銅像が置かれたのみ……となっていました。
そして義貞挙兵六百年を迎え、昭和天皇群馬行幸があり。
昭和10年(1935)2月になり「帝都に新田公の銅像を」と再び運動が起こるものの、直前の昭和天皇誤導事件の影響で牽引役の新田公会が休会状態となります。ここからしばらく、義貞像については目立った動きは見られません。
ふたたび、義貞像建設計画が世に出るのは、昭和13年の「新田公六百年記念祭」の前後からです。新田公会の発起人でもあった豊国覚堂が話を持ち込んだのは中島知久平です。尾島町出身で中島飛行機を創業。昭和5年には衆議院議員となり、この昭和13年には近衛文麿内閣の鉄道大臣として初入閣しています。
群馬会館の義貞像も元々は中島が寄贈したものでした。しかし、新興財閥の中島では皇居前への銅像建設は簡単ではありません。他にも鳩山一朗、荒木貞夫(陸軍大臣)、徳富蘇峰、小泉又次郎などが義貞像建設には協力的でした。小泉又次郎は小泉純一郎首相の祖父です。
「義貞像、痛みに耐えてよく頑張った。感動した!」
近年、このネタが通じない時代になっていることに時の流れを感じます。
各名士の協力を得たものの、義貞像の建設は簡単には進みませんでした。
群馬会館の新田義貞像
2,二十体の義貞像
昭和13年(1938)、この1年で群馬県各地に10体の義貞像が設置されました。高崎市中央小学校を皮切りに、桐生西小学校、桐生北小学校、芳賀小学校、刀川小学校(勢多郡)、中川小学校(前橋)など、すべて小学校でした。
更に15年には世良田小学校(新田郡)、桃井小学校(前橋)にも……
そのすべてが群馬会館に銅像と同じく、稲村ヶ崎の海に太刀を奉じる姿のものでした。大きさも80センチ前後の小銅像。おそらく、当時の人々には「二宮金次郎像の武将版」という感じに見えていたでしょう。大半が地元県議、町議などによる「新田公六百年記念祭」を記念した寄贈。一部が募金による建設でした。
これは偶然ではありません。「大忠臣義貞公は当然宮城前に銅像を建設さるべきであると考へてこの運動を起す計画」でした。この銅像を寄贈した高崎市教育会のコメントが「これから(高崎)市内の各小学校その他出来得れば全国の小学校へ建てることが出来ればいいと考へています」当時に報道にあります。
つまり、県内各地の小学校への義貞像の設置は、将来的な帝都東京への義貞像設置の布石であり、まずは小学生の間に義貞を顕彰する意識を植え付けようとする狙いがありました。豊国覚堂も「これを全国的な運動となすべく計画し、その手初めとして先づ小国民の頭にしみこませる必要がある」としています。
高崎中央小学校以降、昭和16年までに群馬県各地の小学校に義貞像を次々と置かれています。その数は「19体」にまでなりました。昭和15年が紀元2600年、そして16年は太平洋戦争が開戦したので「小国民の精神教育のため」として設置が加速していきました。
『銅の軍神』は「幻の20体目」の義貞像の物語ですが、実際には未判明分も含めると、もっとあったのではないかと思われます。実際に生品神社の盗難事件のあとで、名乗り出た学校もあったようです。
多くが太田、桐生など当時の新田氏の勢力範囲ですが、白沢小学校(利根郡)、総社小学校(群馬郡)、中之条小学校(吾妻郡)にも置かれるようになります。群馬県内は「新田義貞像ブーム」となりましたが……
しかし昭和17年(1942)、激化する戦況のために金属類回収令……所謂「戦時供出」がはじめられました。義貞像は「出征」をして次々と回収されてしまい、残ったのは新田郡の生品小学校の一体のみ。
戦後、白沢小学校の一体のみは再建されましたが、多くは蘇りませんでした。台座だけ残っていた学校もあったようですが、それも時の流れで撤去されたようです。
中之条小学校の新田義貞像
唯一、供出を免れた生品小学校の銅像は昭和58年(1983、生品神社に移築されました。この年は義貞挙兵から650年。生品神社では式典が行われたようですが、それは熱狂に沸いた「新田義貞公挙兵六百年祭」とは比べるべくもなかったようです。
それ以来、義貞像は生品の森の中にひっそりと置かれていました。
置かれていたのですが。
続きます。