銅の軍神コラム④「鎌倉幕府滅亡」 | 智本光隆ブログ

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1,鎌倉攻防

 

さて、いよいよ舞台は鎌倉へ。

分倍河原で勝利した新田軍が鎌倉を包囲したのは元弘3年(1333)5月18日。これに対して、北条高時を主将とした北条軍は、すでに鎌倉防衛を準備を終えていました。

 

 

鎌倉は三方を山、南面が海という天然の要害です。源頼朝が鎌倉を本拠としたのは、この地の防御力のためです。

さて、どう攻める新田義貞。

海のない上野武士である新田は当然のように船がありません。「猫絵の姫君コラム」で岩松水軍の話をしましたが、今回は忘れてください。心に念じれば、そこが群馬の海となる……という群馬出身タレントの持ちネタも、その場合は忘れていただいて。

 

 

鎌倉に入るには「切通し」と呼ばれる狭い通路を通る以外になく、幕府軍は当然のようにここを固めています。新田軍もこの切通しに各軍を配置することになり……

 

巨袋坂  新田軍:堀口貞満  幕府軍:赤橋守時

極楽寺坂 新田軍:大舘宗氏  幕府軍:大仏貞直

化粧坂  新田軍:新田義貞  幕府軍:金沢貞将

 

各軍はこんな感じで布陣しました。

赤橋守時は幕府の第16代執権ですが、妹の登子足利高氏の正室です。つまり、妹婿が反逆している状態。その汚名を濯ぐためか、18日の開戦と同時に切通しを出て新田軍に攻撃を仕掛け討死します。

 

 

ただ、この同じ日に極楽寺では大舘宗氏も戦死します。宗氏は新田一族の勇将で、ここまでの戦いでも活躍しています。『猫絵の姫君ー戊辰太平記ー』に登場する、大舘昇一郎の先祖ですね。

宗氏の戦死によってこの方面の新田軍は敗走。そのため、義貞はこの方面の指揮を弟の脇屋義助に任せて極楽寺に向かいます。19日、20日になっても戦況は変わらず。鎌倉の東側には陸奥白河の千葉貞胤、小田治久らの軍勢も到着しますが、鎌倉は難攻不落の様相を呈しています。

 

 

そして21日も日没となり、義貞はひとつの作戦を実行に移します。これが新田義貞という武将の名を後世へと伝えることになります。

 

極楽寺坂切通し

 

十一人塚(大舘宗氏の墓)

 

 

2、鎌倉幕府滅ぶ

 

稲村ヶ崎については次回、特別に1話も設けて詳しく書きますので、ここは『太平記』を中心に。

21日夜、義貞は極楽寺坂の浜手に密かに精鋭部隊を集めます。『猫絵の姫君』の時に触れましたが、この前日まで前線部隊長だった岩松経家を交替させたのは、この時のことです。

そして日付が変わった5月22日。義貞は稲村ケ崎の波打ち際に進み出ます。以下は『太平記』の記述です。

 

 

「義貞馬より下りたまひて、兜を脱いで遥々と海上を伏し拝み、龍神に向つて祈誓したまひける。「伝へ承る、日本開闢の主、伊勢天照大神、本地を大日の尊像に隠し、垂迹を滄海の龍神にあらはしたまへりと。わが君その苗裔として、逆臣のために西海の浪に漂ひたまひ。義貞今臣たる道を尽さんために、斧鉞をとつて敵陣にのぞむ。その志ひとへに王化をたすけたてまつて、蒼生を安からしめんとなり。仰ぎ願わくは、内海・外海の龍神八部、臣がよく忠義をかんがみて、潮を万里の外に退けて、道を三軍の陣に開かしめたまへ」と至心に祈念し、みづから佩きたまへる金作りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり」

 

 

義貞が龍神に祈願するとその夜の月の入り方に、これまで決して干上がることのなかった稲村ヶ崎の海が「二十余町」(2000メートル以上)も一気に干潟となりました。沖を埋めつくしていた、幕府軍の軍船も潮に流されて沖へ。これによって新田軍は干潟を突破して、極楽寺下の前浜に上陸。

極楽寺坂の切通しを突破されたことにより、幕府軍は浮足だって各方の切通しも次々と突破されます。新田軍は由比ヶ浜から若宮大路へ。この時、幕府館では義貞の妻で、嫡男の新田義顕の母の父でもある安東重保(聖秀)が戦死しています。

高時以下の北条一門は鎌倉東の東勝寺に避難しますが、金沢貞将、大仏貞直、長崎高資などが次々と討死。北条高時は嫡男の北条時行を落ち延びさせると、自害して果てました。共に滅んだ北条一族、郎党は283名。

かくして源頼朝が創った鎌倉幕府は東勝寺から燃え上がった紅蓮の炎にその身を焼かれて、皐の空にその命脈を散らせました。『太平記』をこれを「源氏多年の蟄壊、一朝に開くる事を得たり」と結んでいます。

 

 

一気にここまで飛ばしました。

次回はちょっと戻って稲村ヶ崎の義貞についてです。

 

 

 

というわけで、続きます。