最近、せいについて考える事があります。
それは、せいの気持ち・・つまり心の中です。
私たち夫婦は、我が子である、あおを失った悲しみが
心の中にあります。しかし、せいは少しだけ違う・・
あおの闘病中は、あおと一緒にいたい気持ちと同じくらいの
ジェラシーを感じていたのではないか?
あおが、お空に帰ってからも
あおを失った悲しみと同じぐらいの
理不尽さを感じているのではないかと・・
「なぜ、あおは怒られなくて、僕だけなの?」
「なぜ、僕の方を見てくれないの?」
「なぜ、一緒にいてくれないの?」
「なぜ、僕とあおは、どこがちがうの?」
「なぜ、あおがお空に帰ってまで、比べられるの?」
このような思いが、せいの中で渦巻いていて
色々な「Why」が生み出されているような気がしています。
この一年半の間、せいは、自分を見て欲しいためか
大人限定なのですが、色んなちょっかいを出して
無意識のうちに、自分に注目を集めようとしています。
仕方のないことなのかもしれませんが
どうしても、寂しい思いをさせてしまって・・
この歌のように、自分の痛みの気持ちを
箱に詰めて、痛みの塔を作ってしたのかもしれませんね・・
これからは、私たち夫婦が
せいを暖かく見守り、少しずつですが
せいの「Why」を取り除けるように
日々を過ごしていきたいなと思います。
それは、せいの気持ち・・つまり心の中です。
私たち夫婦は、我が子である、あおを失った悲しみが
心の中にあります。しかし、せいは少しだけ違う・・
あおの闘病中は、あおと一緒にいたい気持ちと同じくらいの
ジェラシーを感じていたのではないか?
あおが、お空に帰ってからも
あおを失った悲しみと同じぐらいの
理不尽さを感じているのではないかと・・
「なぜ、あおは怒られなくて、僕だけなの?」
「なぜ、僕の方を見てくれないの?」
「なぜ、一緒にいてくれないの?」
「なぜ、僕とあおは、どこがちがうの?」
「なぜ、あおがお空に帰ってまで、比べられるの?」
このような思いが、せいの中で渦巻いていて
色々な「Why」が生み出されているような気がしています。
この一年半の間、せいは、自分を見て欲しいためか
大人限定なのですが、色んなちょっかいを出して
無意識のうちに、自分に注目を集めようとしています。
仕方のないことなのかもしれませんが
どうしても、寂しい思いをさせてしまって・・
この歌のように、自分の痛みの気持ちを
箱に詰めて、痛みの塔を作ってしたのかもしれませんね・・
これからは、私たち夫婦が
せいを暖かく見守り、少しずつですが
せいの「Why」を取り除けるように
日々を過ごしていきたいなと思います。