「闘病記録を書こう」
移植がある程度はっきり見え始めた時期から
考えるようなった。
動機はいくつかある。
まずは自分自身の心の整理のため。
子どもの難病で受ける親の精神的ストレスはかなりのものだ。
頭の中はぐちゃぐちゃに乱れ、パンクしそうに苦しくなる。
最初、胆道閉鎖症の疑いが濃くなったときは
「こんな病気を背負ってまで、生きさせていいんだろうか。」
と考え、移植が避けられないとなれば
「不確実で犠牲の多い生体肝移植に賭けてまで、
生きることを求めるべきなのか?」と悲観した。
負の感情が強烈に渦を巻いて、その渦中から
逃れることは容易でない。
きちんと自分の想いを咀嚼しておかないと、
また次の困難が出てきたとき
ぐるぐると負の堂々巡りをしてしまうと感じた。
本当に辛い時は恐くて心にふたをし、見て見ぬふりをしたが、
前進を誓ったあとは覚悟を決めて
自分の内面と向き合ってみた。
少しずつ少しずつ、絡まった糸をほぐし、
言葉として紡ぎ出していく。
積み重なった単語たちが文章として織り成されていくとき、
同じ量だけ私の心も軽くなった。
次に、これから産まれるであろう
胆道閉鎖症の赤ちゃんのため。
さくらの闘病は一例に過ぎないが、
医療情報も親の心情もある程度整理して盛り込まれた
記録があればすごく参考になるはず。
胆道閉鎖症等肝疾患の子をもつ、有志の親御さんが
立ち上げた情報サイトがある。
「肝ったママ's」
http://kimottamama.info/
娘の異常を疑ったとき、
このサイトにはとてもお世話になった。
分かりやすい言葉で情報がまとまっており、
気遣いの溢れるサイトだ。
私も誰かのために、この経験と知識を提供しよう。
誰かの役に立つと思える活動に取り組むことで、
自分の辛い経験を昇華したいと思った。
どこかの段階で、この文章は匿名にし、
誰でも検索できる場所にまとめておこうと思う。
(※それがこのアメブロです。)
私には野望がある。
「絶対にこの闘病記録を、ハッピーエンドにしてみせる」
強い決意だ。
以前書いたが、私は病名確定前、胆道閉鎖症からの
移植後に亡くなった女の子「篤ちゃん」のブログを読んだ。
胆道閉鎖症は死ぬんだ。
移植は死ぬんだ。
その時受けた衝撃から、移植で元気になった子を見てもなお
立ち直れなかった。
どんなに「さくらちゃんのように、
状態をよく見極めて移植を決め、
(ICUからでなく)病棟から手術に出発する場合は、
きっと大丈夫ですよ」と励まされようとも、
即座に「いや、それでも篤ちゃんは死んだ…」
と過ってしまう。
読んでしまった過去は変えられない。
このトラウマを克服するには、自分でハッピーエンド物語を
上書きするほかないと思った。
誤解ないように補足するが、移植は決して
「闘病生活の終わり」ではない。
「移植後」という新しい人生の再スタートなのだ。
それでも、移植を乗り越え、元気に走り回る
さくらの姿で記録を終わらせたい。
固い信念と、はっきりしたイメージが形作られ、
筆をとった次第である。