我が夫は一年前に地域包括センターに連絡して、介護申請をしました。

介護申請をするには。かかりつけ医を決めて意見書を医師に書いてもらい市役所に届けて、審査に通らなければ受けられません。決まるまで一か月、二か月はかかります。

 さて、どこの病院をかかりつけ医に決めようか?、と決めかねていましたが、私は助産師、看護師でもあり、リンパケアをしているため、大人の介護や身体の清拭は一人でやれる自信がありました。そこで、在宅診療もあり、看取りまでやってくれるクリニックを捜して選びました。

 夫は歩くのが不自由、尿漏れもあるので、トイレや廊下に手すりをつけてもらい、ベットや杖、シルバーカーをレンタル、おむつも1/10で買える手続きをしました。シルバーカーを借りる時、おむつを借りる時、再び医師の意見書が必要でした。そのために、かかりつけ病院に再々、足を運ばざるを得ませんでした。しかし、そのクリニックには送迎バスがあり、自宅の前まで無料で来てくれるので、非常に助かりました。

 一度決まれば、ちょっと時間がかかりますが、その後は楽になります。

デイサービスも週に1回、行きました。リハビリだけでなく麻雀もできるため、夫は麻雀が楽しみで通っていました。

 現在の介護支援はずいぶんと充実しているな~と、感心しました。

しかし、夫は、自分の好きなパチンコとタバコはどうしても止められず、パチンコは亡くなる一週間前まで自分で車を運転して行っていました。、タバコは亡くなる2日前まで吸っていました。

私は車の運転だけは危ないから止めさせようとしましたが、私の言うことは聞きません。そこで娘たち夫婦から止めるように言ってもらうことにしました。しかし、娘たちは、取り敢えず、夫の車の運転をみてみようと、同乗して夫の車の運転状態を見ることにしました。そうしたら、娘たち夫婦よりも車の運転が上手だと言われてしまいました。

 夫は、ほとんど食事をとらなくなり、どんどん痩せていくので、危ないなーと思っていました。更にしょっちゅう転んでもいたためか、ある日、背中や腕の打撲の痛みで入浴中に立てなくなりました。私が気づくまで、一時間以上もお風呂で動けなくなっていました。幸い、湯船からは上がっていましたが、便が風呂の中や洗い場に落ちていました。

私は重い夫の身体をどうにか抱えて、ベッドまで移動しました。

その日の夜は、夫は死んだように眠っていました。翌朝、行ってみたら、ベッドから起き上がって、車いすに座って煙草をふかしていました。

その日から、夫はパチンコに行くのをあきらめたようです。

それから、二、三日は、タバコを吸いたい一心で起き上がりタバコを吸っていましたが、亡くなる二日前に、もうタバコを止めると言って、その後はほとんど眠ってばかりでした。

血圧や酸素濃度を測っていましたが、血圧は100以上あり、酸素濃度も97くらいででした。尿も500以上は出ていたので、大丈夫かな~と思っていましたが、亡くなる前日にはほとんど水分摂らず、尿が50㎖しか出ていませんでした。

そうしたら、深夜の3時半に、私が蚊がうるさくて目が覚めました。なんとなく、蚊取り線香を付けて蚊を殺してはいけないのでは?と感じて、直ぐに夫の部屋に行ってみました。そうしたら、夫が「おむつ」と言って、ベットに座っていました。

直ぐにおむつを取り替えたのですが、おむつが全く汚れていませんでした。

変だな~と辺りを見回したら、便で汚れたおむつがベッドの下に落ちていました。

夫は排便したおむつを、自分でなんとか取り替えていたのです。

私を呼ぶときには、ここを押すんだよと、インターホンの呼び出しの子機を置いていたのですが、寒くて布団をかけてほしいとか、足を高くして、には押していたのですが、排便したおむつは押さずに、自分で始末しようと最後の力を振り絞って取り替えたようです。その後、息をはーはーしているので、しばらくの間、側にいました。

汗がびっしょりだったので、顔や体をふいて、足を高くして、湯たんぽを交換して、足のマッサージもしながら、側に二時間くらいいました。そして、一時間後に来てみたら、動かず、死んだようになっていたので、聴診器で心臓の音を聞きました。何とか心音は聞こえました。直ぐにかかりつけ医に電話しました。「奥さん、落ち着いてくださいね」と言われて、状態報告しました。何回か電話でやり取りして、一時間後に医師が到着しました。その間、私は夫の瞳孔反射をみましたが、瞳孔は散大、呼吸は泊まっていました。医師が死亡診断書を書いてくれなかったらどうしようかと、ハラハラしていましたが、訪問診療の契約も済んでいたし、クリニックに何回か足を運んでいましたので、医師が一度も訪問診療はしていませんでしたが、死亡診断書を書いてくれましたので、ほっと安心しました(そうでないと警察の騒ぎになるところでした)。その後、葬儀屋に連絡したり、子供達にも連絡して、火葬も済み、

二週間たちました。まだ、手続きなどは終っていませんが、やっと、気持ち的に落ち着いて、ブログを書く気になって、書いています。

三人の娘たちが、葬儀屋と、やり取してくれて、安くしてもらい、銀行や役所に足を運んでくれて書類を取り寄せたり、それぞれが、それぞれの役割を果たしてくれているので、非常に助かりました。

私は、自分の意見は極力、出さずに、娘たちの意見を尊重したので、葬儀もスムーズにいき、無事に終わることができました。

 

 そこで、今回の、夫との死別の教訓から、私なりに考察してみます。

いつもの私であれば、自分の意見を優先して、それを娘たちに押し付けていました。

しかし、今回は、それを止めて、娘たちの意見に従うことにしました。

私が、自分の親の葬式で、いつも、決まって、相続の件で、きょうだい喧嘩になったり、おじさんが意見を言い出したりして、騒動になっている経験をしていたので、それが嫌だったので、全てを放棄するつもりで、娘たちの案に従いました。

夫は土地を少しもっていたので、それも放棄、今住んでいる土地や建物は半分ですが、それも放棄することにしました。娘たちは、親が住んでいる家に住みたくないようでした。その意見を尊重して、私が生きている間だけ住めれば、それでいいと思いました。

 それから、何故、夫が、死ぬまでパチンコ、タバコを止められなかったのか、ですが、それは、昨日、親しい友人と、8時間くらいおしゃべりして、気づきました。

 それは、夫の性格が、本来は短気で怒りっぽい性格だったと思われます。

私自身も短気で、怒りっぽい性格なのです。

もし、二人で、本来の性格を、自由に出していたら、家庭はぼろぼろ、崩壊になっていたのでは、と気づきました。

それを、しないためには、夫は毎日、パチンコに行って、タバコをふかしていたのかもしれません。夫は夫で、自分の性格を、パチンコやたばこで抑えていたのかもしれません。私は、夫や娘たちに、不満をたらたらと、漏らしていたので、娘たちはそのようなお母さんが嫌いになって、家から離れて暮らし、家に近寄らなくなってしまっていたように思われました。

それを、友達との8時間の会話から気づかしてもらいました。

 物質社会の戦争も、もしかして、これと同じことが言えるかもしれません。

切磋琢磨して、少しでも他人よりも、他国よりも、有利になろうとして、頑張る、競争社会を終了にしなくてはいけないのです。

物質社会で頑張るのではなく、自分の性格との戦いです。

もし、夫が、素直に、自分の性格を、私の様に出していたならば、きっと、家庭崩壊になっていたと思われます。

夫が、良くも悪くも、パチンコやたばこに費やして、それを最後まで許していた私がいたから、この夫婦のコンビが、家庭が崩壊しないで、ここまで来られたと、結論付けました。

そして、夫が亡くなった今、母親である私が、娘たちの意見を尊重するのを、優先したから、三人の娘たちが、一気団結することができ、無事に葬儀が終了出来た様に思われます。

これからの私達の未来は、競争社会を脱しなければいけません。

それぞれが、自分の我を出さない方法を会得して、(かといってパチンコやたばこは勧めませんが)、方法を模索しなければいけません。 

これからの、未来の、有るべき姿を、夫の死亡と娘たちに教えてもらったように思われます。