「イラクの小さな橋を渡って」という本を読んだ。

その中には自分の知らない世界があった。そして自分たちがいかに間違った情報を浴びているかも。

多くの日本人は、イラク人と聞くとあまり良いイメージを持たないであろう。

サダム・フセインというファシスト、危険な国、核保有国。

連想される言葉はきっとこんな感じだ。

しかし、それはメディアが創り上げたイメージに過ぎない。

たとえそれが本当だとしても、それがイラクのすべてではない。

イラクにもおれたちと同じような普通の生活が存在する。

彼らは心から国の平和と安定を求めている。

そんな彼らにさえ、悪いイメージを持たせているメディアは人道であろうか。

今、かれらには満足に学校も病院も食料もない。

罪のない人を痛めつけている経済制裁も一つのテロ行為である。

この本には日本ができること、しなければならないことがたくさん書いてあった。

コンタクトレンズを初めてつけたときの感動が忘れられない。

今まで霞んで見えなかったものがどんどん浮き彫りになっていく感覚。

別世界だと思った。すべてのモノがクリアになっていく喜び。

このレンズのおかげで素晴らしいものがより素晴らしく見えた。

ブライスキャニオンの絶景の山々も、ニューヨークの街並みも、

このレンズなしでは、喜びも半分だったかもしれない。

初めてつけた日からもう7年くらい経った。

慣れてしまえば、これほど素晴らしいものはないと思う。

ケアは大変だけど、それ以上に得るものは多い。


「見える」というのは特別なこと。「見えない」というのは、とても寂しいこと。

だからはっきり見えるというのは大きな喜び。

それだけのことなんだけど、それ以上のことはない。

金曜の夜、はじめてルミネthe吉本に行った。

お笑いのライブは初めて。普段テレビで見て笑っているように、会場でも笑えるだろうか。

少し不安になったりもした。


会場は、ロンドンブーツやレイザーラモンなど人気の芸人が出るということもあって超満員。

(残念ながら、私は立ち見だった。)


初ライブ体験の感想としては、やっぱり生で見るのはテレビで見るのとは違うということ。

どの出演者の時も、仕事の疲れも忘れ、心のそこから笑った。

これだけたくさん笑ったのはいつ以来かなぁ、と思うくらい楽しい時間となった。

やっぱ、笑うことが自分にとって一番のストレス解消だと再確認した。


そしてもう一つ。芸人さんってすごくかっこいいことをしているなぁと思った。

人を笑わせたり、楽しませることってすごくかっこいいことだと思う。

顔やスタイルが良いだけでテレビに出ている人たちよりも、レベルの高いかっこよさだと感じた夜であった。

少なくとも今は、仕事をしていく上で一番重要なことは、コミュニケーションを取ることだと思っている。

いかにいろんな人と会話ができるか、お互いを知るということ、これが大事に思えて仕方がない。


自分がどんな人間か伝え、どんな人間か知ってもらう。相手のことも知ろうとする。

これは、仕事場を良い環境にするためにとても大事なことだ。

仕事はひとりではできない。社会人になって、強く実感した。


良い環境を築ければ、良い気分で仕事ができ、良い結果につながる。

だから、成功の第一歩はコミュニケーション。

そこで躓いてしまうと、社会で結果を出すことは難しい。


楽しく仕事ができれば一番いい。

でも友人たちとくだらないことなどで笑い合う楽しさではない。

同じ気持ちで何かを目指す、そういう楽しさ。

それにもまずは良いコミュニケーションありきのこと。

食べ物を信じられず、隣人を信じられず、人はどのようにして生きていけば良いのか。

テロリストによる残念なニュースを聞くたび、考え込んでしまう。

例によって、親を失った子供たちの顔がブラウン管に映る。

窓の外から銃声ではなく、虫の声が聞こえる日本は平穏だ。

今この瞬間にも世界のあらゆる場所で、さまざまな営みが終わりを告げている現実。

それに対し、目を背けているこの国。

自分が生きているということを意識せずに暮らしているおれたちは果たして幸せなんだろうか。

自分が関わりあうもの、思いを巡らすもの、生きる理由となるもの、

おれたちはしっかりと向き合えているのだろうか。

今、答えとなるべき言葉が見つからないのは、自分がいかに他者の痛みついて鈍感で想像力に欠いていたか、そういうことだと思う。

東京がバグダッドになる可能性だってゼロではないと思う。

備えになるものなんてどこにもない。

そんな世界でおれたち日本人は、無邪気に笑っている。

そこには本当にいろいろなものがある。

そのどれもが自分にとってポジティブであることがたまらなく嬉しい。

いつまでも心の引き出しにしまっておきたい素晴らしい時間。

失望の日々も大きな喜びの前では、忘却の彼方へ。

残念なニュースがぼくらの時代を飛び交っていても、そこには喜びがある。

パンドラが箱を開けて「苦しみ」と「悲しみ」が世界に飛び散ったときに箱の底に「希望」だけが残ったように。

そこに映る空は、いつでも光が照る。揺るがないものがそこにはある。

ぼくらはそれをひとつひとつ探していく。でもそれはそんなに難しいことではない。

だってそこにはいつも光が満ちているから。そしてそれをぼくらは誘うだけ。

やがて時経ち、この喜びの宴、終幕する日があるだろう。

何かが始まれば、いつかきっとどこかに’最後’がある。

でも今はそれが、ずっとずっと先のことであってほしい。

今まで見たすべてのゴールの中で一番を決めるとしたら、おれは迷わずそのゴールを選ぶだろう。

そのゴールとは、セリエA94-95シーズン第12節、ユベントス対フィオレンティーナ、

ビアンコ・ネロの当時、弱冠二十歳の若者が決めたゴールである。


まさに神技だった。後方から相手ゴールに蹴ったロングボールを、右足のアウトで、しかもダイレクトで

左からゴール右隅に打ち込んだのである。この瞬間、時間が止まった。

誰もが信じられない気持ちになった。 

呆気に取られ、言葉を失うほどの絶妙なシュートであった。

博物館に飾っておきたくなるような傑作のゴール。


そのゴールを見て以来、おれはそれ以上の素晴らしいゴールを見ていない。


今までに二回ヨーロッパに行った。

街並みを見て感じたこと、その一つに’水’の表現というものがある。

川であったり海であったり湖であったり、その美しさを最大限に生かしている。

ベネチアが水の都であるのはもちろんのこと、フィレンツェやザルツブルグの川もすごくきれいであった。

街並みを区切るように通っていく一本道に沿うように、美しい建物がきれいに並んでいる。

太陽が上に昇っているときには、その一本道に両サイドから水の鏡の上に映える。

夜になれば、建物の光がそのゆらめきを映す。

おれは、そういうのを見て、ヨーロッパというものを感じた。

その時間、心を和ませ、目を細める、時の流れがゆっくりと感じ、不安や焦りを忘れた。

あの光景をおれは特別だと感じたけれど、ヨーロッパの人たちにとってみれば、それは毎日見ている何気ない景色の一つでしかないのかもいしれない。

写真を何枚か撮ったけれども、そんなもんじゃきっとうまく伝えることができない。

実際行かなければ感じないもの、そういう特別なものを感じた。

水というのはなくてはならないもの、でもそれは決して生活のためだけではない。

日本でももっと違った表現方法があると思った。



かの大発明家トーマス・エジソンは、「天才とは1%の霊感と99%の発汗なり」と言った。

でもおれは、才能なんてないと思っている、というかそう信じたい。

だからおれは’才能’という言葉がすごく嫌いだ。

「才能がないから諦めた」というヒトは、自分への甘えだと思う。

「才能があったから成功した」 そんなふうに言われた成功者の努力は、とてもかわいそうだ。

’才能’ なんかすごく抽象的な言葉だ。ぼやけていてよく分からない。

言葉の表現に長けたヒト、描くことに長けたヒト、歌うことに長けたヒト、あらゆる分野で長けたヒト、

それは、それを誰よりも好きだと言う強い気持ちが、形を変え、努力となった結果に過ぎない。

エジソンだって、新しいものを創るということが誰よりも夢中になることができ、がんばることができたから、

努力したのだ。

今更だが、本当は才能はあると思っている。だからこれを書いた。

あると思うけど、ないと信じたいからこれを書いた。

努力は才能に必ず勝てると信じたいから、ここに記した。

暗い昼 明るい夜 何もない朝。

意味のないもの 価値のないもの 目に見えぬもの。

昼下がりの雨雲 真夜中の月明かり スズメの鳴き声。

眩しすぎる太陽 きらめく星屑 老人と公園。

昨日 今日 明日 過去 現在 未来。

扉の前で立ち尽くした少年 恋を否定する愛されたい少女。

矛盾でさえも理由がある。すべての矛盾は理由を必要とする。


目標を見失う 自己嫌悪を受け入れる 何にも期待しない。

それでも生きる。毎日起きる。眠る。

すべてのサイクル止まらず流れるまま。時に流れぬまま。

それには理由がない。