前の記事で書いたように↑この本の中で、著者のアンナ・レンブケ氏は、

 

自分を偽らない「正直さ」と、ルール違反をしたら恥ずかしいとか

 

信頼できるグループから排除されるのが怖いという「恥の意識」が、

 

依存している対象を断って回復するときのモチベーションになり

 

また、常に自他に対して嘘をつかない、偽りの自己で生きない、という生き方は

 

正直であることで多少の不都合に見舞われたとしても、

 

すがすがしく、充実感のある人生を送れるものだと仰っています。ただ、一方で、

 

それは、その人の社会的地位などにもよるという事にも、言及されています。

 

 

力のある人は、正直さは信頼関係をつくる要素になるかもしれないけど

 

貧困だとか、マイノリティだとか、立場が弱い人は、

 

正直さが裏目に出る、そこに付け込まれる可能性も高いと。

 

 

それは、自分の体験からも、本当にそう思います。

 

マジョリティに属している人、社会的な力のある人にとって、「世界は優しい」でしょうけど

 

マイノリティの人、社会的な力のない人には、世界はあまり優しくない。

 

同じことをしても、マジョリティに属する人は「身内でかばい合う」システムが働くけど

 

マイノリティにはそのシステムは適用されないわけです。

 

差別は大っぴらには行われないので、マジョリティの人は気づかないでしょうけど。

 

 

もう一つ、このことは著者は触れていないのですが、

 

私の体験から思う「恥」に対する意見を書くと

 

行為に対する「恥」と、存在に対する「恥」があると思います。

 

 

アダルトチャイルド、発達性トラウマを抱えている人は

 

「存在に対する恥」を抱えている人も多いと思います。

 

生れてきてはいけなかった、女・男であってはいけない、生まれつき劣っているetc.

 

「ルールに反する行為をした恥」ではなくて、もう、存在そのものが恥、

 

どう頑張っても、コミュニティから排除される対象なのだと、無意識に思っている場合

 

その痛みに触れるのを避けるために依存症になったり

 

偽りの自己で生きていこうとしてしまうことも多いと思います。

 

そして、親からいじめられ続ける体験をしてきたわけなので

 

そもそも、人を信頼する力が育っていない。

 

その人にとって「信頼できるコミュニティ」なんて

 

この世に存在しないことになってしまう。

 

 

「恥の意識」を持つことが、自分を律していい人生を送るために有効な人と

 

「恥の意識」を刺激されることで、ますます自分の中にこもったり

 

社会を敵視したりする方向に行ってしまう人もいるのではないかと思います。

 

それは、過去の私なのですが(苦笑)。

 

その体験を、次回、書きたいと思います。

 

 

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