「これは正しいのかどうか」「私は間違っているのかどうか」
自分や他人の行動を見て、ついつい、「正しい、間違い」を考えてしまう。
考えないようになれれば、いちばん楽なんでしょうけど、
なかなか、そこまで気楽にはなれません。
考えすぎてしまうとき、私はまず、「何のために」「誰のために」を考えます。
その前に、まず大前提として、世界には「正解がないからわからない」ことと
「正解があるはずだけど、それが解明されていないからわからない」ことがあります。
自然現象、物理法則などには、正解があります。
人間の心や体の仕組みも、自然の一部で、決まっていることです。
でも、それがまだ解明されていなくて、いろんな説があったり
どういう場合に「効く」のかとか、詳しくわかっていないから「正解がわからない」。
そういうことに対しての「何が正解かわからない」は、基本、「わからないままにしておく」。
(やれそうなことは自分で人体実験してみる。笑)
一方で、法律、生き方、文化、常識、しきたり、などなど、
「人間が考え出すこと」には「正解がない」と言えます。
例えば法律も、国によって、時代によって変わります。
人間が考え出すことについては
「その常識は誰にとって正しいのか」とか
「そのルールは何(誰)にとってメリットがあるのか」を考えると
モヤモヤが整理されてきます。
例えば私の例で言ったら、「仕事をしている嫁はいいか悪いか」ということを
いつもモヤモヤと考えてきましたし、今でも、「私は正しかった」と思いたくて
モヤモヤ考えてしまっていることもあります。
でも、本来、いいも悪いもないのです。
夫と、「お互いに働いて、お互いに平等にやろう」と決めただけのことだから。
それを快く思わない人たち(過去の常識の中で権力を持っていた人たち)が大勢いて、
多勢に無勢だから、「相手が怖い」⇒「へつらう」反応が起きる⇒
「自分が悪いのだろうか、わがままなのだろうか」と、考えてしまっていただけ。
「仕事をする嫁、従順でない嫁は悪い」という考え方は
家族で力を合わせて農業をしなくてはいけない時代、地域にとっては
メリットのある常識だったかもしれないけれど
家業である農業がなくなってそれぞれが働かないとならない時代なのだから
変えなければいけない常識。
古い常識に従っていたら食いっぱぐれてしまう。
あとは、そういう古い考えにしがみつく人たちと関わるときに
どういう「戦略」を取るかを考えればいいだけ。
(話してわかる相手なら話す、それが状況を悪くすようなら適当に合わせる、とか)
以前は罪悪感があったし、許してもらいたかったから、
どう説得すべきか、あれこれ考えたりしていたけど
逃げるが勝ち、の状況だったのです。
逃げなかったからつらかっただけ。
そんなふうに考えていくと、なんとなく、モヤモヤが収まってきます。
(収まらないこともあるけど。笑)
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